.50






 空が白く霞むくらいに明るい日。時刻は既に2時を回っていた。
 そう多くない荷物を抱えて外に出た。元から小さなトランクひとつでやって来たのだから出て行くときも荷物が増えるということはない。ただ、あの時は大方の荷物は先生が持ってきてくれたんだけど。
 カチャンと小さな金属音を立ててドアが閉まった。トランクを一度地面に置いてカギをかける。どこかカギが閉まってしまうのが惜しい気がしたけど、今の私にはそれに逆らう気力はなかった。
 カンカンと、トランクを抱えながら一段ずつ階段を下りる。薄汚れた人一人がやっと通れるくらいの薄暗い階段。明かりがないわけではないが、このビルのテナントは先生が借りているだけなので明かりをついているところは見たことが無い。もっとも暗闇を苦とするくらいならこの家業は務まらないだろう。

 少し歩くとすぐに大きな道路が見えてくる。しばらく何をするでもなくタクシーでも通らないかと待ってみたが、相変わらず通るのは赤や青の乗用車。私は携帯を取り出してタクシーを呼ぶことにした。
 全くなぜ最初からそうしなかったのか。私の一部はまだ止まったままなのかもしれない。

 10分と待つことなく白を中心に青や黄色のラインの入ったタクシーがやってきた。呼べばあっという間にやってくる。交通機関に関しては日本に勝る国は無いと思う。
 タクシーは私の姿を見つけると車を路肩に寄せた。そして後部座席のドアが開いた。私がそれに乗り込むとバックミラーで後ろを見ながら運転手が行き先を尋ねた。それに私は近くの空港の名前を答えて、ほどなく車は走り出した。











 ガタンと大きな音を立てて私の愛用の目覚まし時計がトランクの中に放り込まれた。思ったより大きな音が出たことに少し驚いて、また手を動かし始めた。
 もちろんあれくらいで私の目覚まし時計は壊れはしない。あれは使用者の目を覚まさせることにはいささか役不足なのかもしれないが、頑丈さに関しては私は全幅の信頼を置いている。なんせ銃底で思いっきり叩いてもヒビ一つ入らないのだから。
 
私は不機嫌だった。原因は言うまでもない。言いたいこと言って出て行った彼のせいだ。いや、正確に言えば言いたいことを言って帰ってこない彼のせいだが。
 結局、朝になってもリョーゴはやって来なかった。期待していたわけではないが、なんとなく彼は朝になったらまたひょっこりやってくるような気がしていたのだ。予想に反して私が起きたときには彼はいなかった。
 私は彼に会いたくはなかった。彼はいつも私を嫌な方へ連れて行く。そっちは本当すぎるから私は嫌いなのだ。彼は真っ直ぐすぎる。だから私は自分の歪みを指摘されているようで嫌だった。でもどこかでそうなりたいと思っていた。

 バタンと重い音をさせトランクの金具を閉める。
 アカデミーに帰る。悪くないだろう。だいたい今回の試験はきっと無効になる。あの街は普通じゃなかった。ホールの発生がひどく不自然なのだ。無理矢理雲を集めて入道雲にしたくらいに不自然。あんなところで試験なんてやってられない。それに他の候補生の姿も最近は見えなくなっていた。きっともうアカデミーにいる担当の教官から通達が来ているのかもしれない。私のところは担当の教官もこっちにきているから来ないのだろう。
 どちらにしろ本部に帰ればはっきりするだろう。それにもし試験が行われるとしてももう私にはそれを受ける気にはなれなかった。頭の中がごちゃごちゃなのだ。何が嘘で何が本当で私はどうしたらいいのか。先生という指針を失った私は目的を失ってしまった。
 私は自分は判断力に優れた方だと思っていたが、それは順調の中にはあるが逆境にはないのかもしれない。結局は他者に依存していないとダメなのだ。だから私は彼を求めるのだろう。誰かが引っ張ってくれないと私は歩けないのだ。

 だけど私はもう歩くことも嫌だった。
 だってどこに歩いたって先生はもういないんだから。











 しばらくタクシーの窓から外を眺めていたが、それで気がまぎれることはなかった。
 私はただ何に焦点をあわせることも無く宙を眺めていた。今の私にとっては曇り始めた空も小さな車内の天井もどちらもたいして大差はなかった。どっちも同じ灰色だからどっちも何も変わらない。
 今の私にとっては物を捉えることさえ苦で、何かを考えることさえ苦だった。もう私が笑うことも無いと思う。感情を表すことにも疲れてしまった。
「お客さん、すいません。渋滞してるみたいで随分遅くなっちゃますけど……」
 だから私にはそんなこともどうでもよかった。運転手の話に軽く頷き、私はまた宙を見上げた。








.51




「これで最後か」
 やっと一通り病室を見て回り、ロビーで一息ついた。3時を過ぎ、お見舞いだろうか手に様々な手荷物を持った人がちらほらと入ってくる。

 結論からいうと異常はなかった。名簿にある人の病室はほぼ回ったが、それらしい人はいなかった。
 頭は相変わらず内と外の両方から金鎚で叩かれているみたいに音が鳴りそうなくらい痛む。体にも力が入らない。それでもここまでやれたのは一重に“慣れ”だろう。最初こそDUDSの判別に5分くらいかかったが、最後に回ることにはほぼ一瞬で出来るようになった。なんていうか思ったより難しくないのだ。あえて言うなら焦点が違うのだろう。普通の視点と霧に会わせた時。これは全く違うビジョンなんじゃなくて、同じビジョンで焦点が違うんだと思う。だから少し遠くを見る感覚で近くにあるものをはずしていくと次第に霧が濃くなっていく。後はそれに任せて見回せばいい。最初は一人一人焦点を合わせなおしていたから時間がかかりそれだけ余計に体力を消耗したのだろう。

 伸ばした足を組み替えて、さっき買ったばかりのカップに入ったコーヒーを一口すする。
 問題といえば問題なのだが、ひとつずつ名簿にあたる人物を当たっていったのだが、どうしても一人だけ見つからない。部屋番号は分かっているから、もちろん昼過ぎにその部屋も回ったのだが、不在のようだった。どこかぶらついているのかと思って、しばらく時間を空けてまた行ってみたのだがいつも姿が見えない。まあ今はそれを待っているというわけだ。とはいえ、そろそろ本格的に探し出さないと行けないだろう。仮に相手がDUDSだった場合、もしかすると俺の動きは読まれているかもしれない。俺には分からないがDUDSやアーティストは無意識のうちに世界を作り変えているらしいから、その歪みを見て俺に気付いているのかもしれない。もっとも俺がそれが分からないのと同じように俺はDUDSとしては弱いらしいからそこまで歪みが現れないとらしいのだが。

 そんなことを頭の片隅で考えながら、受付にいる看護婦の一人に声を掛けた。無論、いつまで経っても部屋に戻らない彼の行方を聞くためである。
 その20代後半くらいかと思われる看護婦はよく頭に響くような高い声で答えた。
「室井和明さんですね。えーと、室井さんはついさっき退院しましたよ」
「退院!?」
 思わず聞き返した。退院……そうか。コトーさんのリストはそう新しいものじゃなかった。だとしたらそれも十分に考えられたはずだ。くそっ。
 ん?でも“さっき”?退院したのは今日なのか?
 そのことを聞いてみると、看護婦は不審そうに俺のことを見た。おそらく俺と室井という奴の関係を聞きたいのだろう。
「ああ、ええと、俺は室井君の大学の友達で最近来て無いからどうしたのかなーって……」
 我ながら呆れるくらいの三流の嘘を並べて、どうにか誤魔化す。どこの大学かなんて聞かれたら一発でアウトだろうに。
「そうですね。お友達じゃ知らないのもしょうがないかもしれませんね。室井さんは本当は退院はずっと先のはずでしたから」
「…………」
 ずっと先だったはず……つまり予定外に早い退院だったわけだ。これは間違いないと見ていいだろう。
 室井和明はDUDSだ。
 俺はできるだけそれを表面に出さずに退院の詳細を訊ねる。本来あまり患者さんのプライバシーに関することはタブーなんだろうが、この看護婦は言葉の端々のそのタブーが飛び出している。
「室井さんは1週間ほど前でしょうか。元々左半身が不随の状態だったんですが、急に回復の兆しが現れて徐々に感覚が戻ってきたみたいで、さすがに歩くことは出来ないみたいでしたけど一人で車椅子に乗ってましたね」
 それはきっと世界から借りているんだろう。失った左半身をレンタルしている。
「それで室井君の自宅ってどこだか分かりますか?」
「自宅……ですか?」
「はい、あの休んでた分のノートでも届けてあげようかなあって」
「そうですか。でも自宅に行っても室井さんは居ませんよ」
「え?」
「室井さんはまだ体の痺れが取れないみたいで福島の実家の近くの大学病院に移ることになりました。そこで療養を兼ねてゆっくりするそうです」
「なっ……」
「どうかしましたか?」
「いえ……」
 おかしい。今までの話から察するに十中八九室井はDUDSだ。なのに、どうしてこの街を出ようとするんだ。DUDSはホールの影響下でしか生きられない。それをDUDSは“知っている”はずである。それは後天性の本能に近い。人が危険なところに近寄らないように、彼らも安全なところから出ようとはしないのだ。
 だとしたら、考えられることは2つ。一つは彼は既にextraになっている。つまり借りたものを得てホールを出られる体になっている。二つ目は――これが一番厄介だが――本能が働いていない。俺みたいになんらかの不都合があってホールの下でしか生きられないことを知らない、下手をすると自分がDUDSだってことにすら気付いていないのかもしれない。
「福島までは車で?」
「いえ、飛行機で行くって行ってましたよ。そのために許可も取られましたし……」
「どうもっ」
 そう言って俺はすぐに出口に走り出した。後ろで何か言っている声がしたが振り返っている余裕はない。
 室井は福島へ飛行機で行くと看護婦は言っていた。ならば目的地はここから一番近い空港だろう。高速を乗り継いで2時間弱。今から追って間に合うのか、いや、間に合わせる!
 DUDSがホールの範囲を出たらどうなるのか。そんなことは俺にだって察しがつく。ホールを出れば借りたものを強制的に返さざる終えなくなる。そうなれば奴は手当たり次第借金をチャラにするために奪うだろう。そうなればどうなるか、そんなことは考えるまでも無い。

 ふとロビーにあるテレビのニュースの音が耳に入った。たまたまこの辺りの地名が出ていたせいだろう。
「車じゃ間に合わないか」
 左右に開く自動ドアが開き終わるのも待たずに俺は外に出た。駐車場をばっと見渡し、使えそうな足を探す。
 バイクだ。バイクがいい。それならまだいける。
 俺は駐輪場に無造作に置かれた2,3のバイクの中から一番大きなやつを選んで跨った。バイクには詳しくないが、きっと大きい方が早いのだろう。
 鉄製のしっかりとしたU字型のカギが掛かっていたが、そんなものは片手で握りつぶした。だが、ふとキーが無いことに気付いた。なるほど、バイクにもカギが必要らしい。言われてみれば当然のことだが、俺はバイクに乗ったことが無いみたいだ。たしかに俺の持ち物には免許証は見当たらなかったから俺は免許も持ってなかったのだろう。
 なぜだろうか。キーが無ければいけないのというのに俺は全く慌てていない。というより既にバイクは走り始めているのだ。駐車場を出て、すぐに前に見えた道路を右に曲がる。免許を持って無い割にはうまく乗れてると思う。意外とバイクはなんとかなるのかもしれない。後は乗りながら覚えよう。
 そう、キーなんて必要ないのだ。それどころかガソリンだって必要ないのかもしれない。俺にはまだその辺りはうまく調節できないみたいだが、それも後で考えよう。全ては室井に追いついてからだ。

 気付けばしとしとと雨が降り始めていた。吹き付ける雨が顔に当たり、水滴がはじけるのが分かる。粒の多きな雨はその数を少しずつ増していく。この分じゃあと30分もすれば本降りになるだろう。

 ツキは俺の方にある。ついさっき病院で聞いた交通情報ではこの先の高速では事故により大きな渋滞が起きているらしい。―――これならまだ追いつける。
 車ならともかくバイクならうまく路肩を走れば追いつけるだろう。
 
 どんよりと暗く曇った空、アスファルトと同じ暗い灰色。
 空と地面の境界は曖昧に、ただ吹き付ける雨だけが俺を確かに走らせていた。








.52




 変わり映えのしない景色。それを眺めるでもなく見るでもなく、ただぼーっと目の前に置いていた。だからだろうか、私は今しがた道路が渋滞していることに気付いた。そのことを言うと運転手は意外そうにずっと前からこの調子だと答えた。
 一度それに気付くと私は何だか落ち着かなくなった。行くなら行くで早く日本を出て行きたかった。いつまでもこんな場所で止まっているのは嫌だった。でも私がイライラしたところで車が進むわけでもない。聞けばまだ1時間くらいは渋滞を抜けないとのこと。さっきは日本の交通機関に勝るものはないと思ったが、早速撤回することになった。
 右の座席に置いたトランクに一度目をやって、私は少し背を伸ばした。ボキボキと小気味いい音を立てて背骨が鳴る。この分ではいつ空港につくか分からない。いい加減、単調な音ばかりが並ぶラジオにも飽きてきた。そして遠く―――嫌な予感がした。

 一瞬、何が起こったのか分からなかった。最初に起こったのは鼓膜を押し破るような強い圧迫感、そして軋む車体。続いて雷鳴のような轟音が前から強風のように吹き荒れた。まるで地震と落雷が同時に起きたような揺れと大きな衝撃と共に私は座席に押し付けられた。
 タクシーの前には大型のトラックがあるためここから前の様子を直接伺うことはできないが、轟々と上がる黒煙を見れば何が起こったかは容易だった。
 恐らくは交通事故だろう。だいたいここから10台ほど前の辺りで起きたのだろう。だが不思議なのはどうやって渋滞の道路で事故が起こるか。こんな速度の出ない道路でどうやったらあんな爆発を起こすほどの衝突が起きるのだろうか。

「どうやら事故みたいだね。こりゃあついてない」
 車外に出て、ドアを半開きにさせたまま頭の前の方が綺麗に禿げた運転手が立ち上る黒煙を見ながらぼやいた。
 私は事故の様子なんて興味はなかったが、何分近かったために煙の様子も気になる。少し車外に出てみることにした。
 それと同時だろうか。15mほど前の方から人がこっちに向かって駆けてくる。それは必死の形相で、何かに追われるように逃げていた。それに驚いた運転手が何人かの通り過ぎる人々に声を掛けようとするが取り合う者はいなかった。誰もがその場から離れるのに必死だった。
 そして前方に目を凝らすと誰かがゆっくりと歩いてくるのが見える。燃え上がる鉄くずをバックにそれはゆっくりとした足取りで歩いていた。背丈は2m半ば。衣服はほとんど焼け、裂けて、かすかにその存在があったことに留める程度だった。体全体が盛り上がり、ボコボコと音を立てるように収縮と膨張を繰り返していた。まるで体の内と外がひっくり返ったように、その体は内臓のような気持ちの悪い黒ずんだピンク色で、繰り返す収縮と膨張が心臓の鼓動に似てた。
 
「あっ……ああぁ」
 気付くと運転手は腰を抜かして、路面に腰を落としがくがくと震えていた。
 無理もない。あんなのはホラー映画の世界の住人だろう。檻の中にいるうちは楽しめるが、それが出てきたらリアリティーがありすぎる。
 近づくにつれて見えてくる。あのボコボコと音を立てる巨体からはいくつもの人間の腕や足が生えていた。いや、正確にいうと飲み込んでいる途中なんだろう。そして同じように飲み込まれていく頭部にはまだ臨終の顔の表情がありありと残されていた。

 それは気付けば4mほど前にいた。そしてペタペタと液体と固体の中間のゼリー状のものが床を張り付くような音を立てて近づいてくる。
「あああっ……!やめろ!やめてくれ!」
 それは既に人間ではなかった。意志というものを感じない。在るだけの人形だった。ただ半端に生に執着するせいでタチが悪い。
 運転手は抱きかかえられるように持ち上げられると、少しずつそれの体にぬめり込んでいく。頭部が全部入ってもまだ助けを求める声が響くようで不気味だった。
 いくつもの他人の手足を抱えた化け物も、それに飲まれていく人間もどちらも醜く、不気味だった。

 それは迷うことなく私の方にも手を向けた。そんなことは分かっていた。あれは無限にエサを求めるつもりだろう。だったら次は私だということくらい分かる。
 逃げようとか思わなかった。恐くないわけじゃない。恐いし、気持ち悪いし、早くこんなところから逃げたかった。
 
でも、逃げ場なんてあるのだろうか。
 どこに逃げたって私は逃げられない。どこにも進めないんだから、どんな平坦で見通しの利く道だって私にとってはしっかりと鍵のかかった密室に等しかった。嘘の上に嘘をつき、あるかどうかもわからない理想を追った。笑いながら背中を押してくれる人もいつの間にかいなくなってしまった。
 結局どこに行っても変わらないのだ。私の解く計算式には最初からゼロが掛かっている。これから何を積み上げていっても答えはゼロに収縮する。だから私はそれを見ない振りをして積み上げていくしかなかった。本当なんてどこにもない嘘塔。
 
 もう嘘をつく必要はなくなったのかもしれない。
 私にはもう嘘をついてまで手に入れたいものなんてない。
 
 ただ―――あの人に認めて欲しかっただけだったんだから。


 後方から聞こえてくる喧騒は遠くなっていった。
 我先にと逃げ惑う人々の叫び声は嫌いだった。目の前にいるものと同じくらい醜かった。

 ただそれを切り裂くようにこっちに向かってくる路面を叩く車輪の音。
 それだけが朦朧とする意識の中で、私をこっちへ引き止める。


 耳元を鼓膜が破れそうなくらい大きな音を立てて黒いタイヤが横切っていった。







.53







 狙ったんじゃないかってくらいタイミングは完璧だった。
 私の体にその血管の浮き出た異形が触れようとした瞬間、ものすごいスピードを出して脇道を疾走してきたバイクが化物の上半身に鈍い音を立てて体当たりした。
 まだ体に自分のものだか、人のものだかも知らない骨格が残っているせいだろう。それはバレーボールというより、水面を跳ねる石のように地面をスライドするように15,6m転がり、側壁にぶつかった。
 それに当たったバイクの方は当たった時に角度が変わったのか、滑るように路面を滑走しタクシーの前にあった車の後部車輪に激突した。当たったものがよかったのかバイクはまだ原型を留めている。
 
こんな馬鹿なこと誰がやったかなんて分かっている。

「痛たたた……。シャル、無事か!?」
 体のあっちこっちを擦り剥きながら彼は私の方に近寄ってくる。無事なのはどっちだろうか。あんな無茶な速度を出してブレーキもしないでバイクと一緒に飛び込んでくるなんて頭がおかしいんじゃないだろうか。常人なら落下の衝撃で死んでいる。それでも生きているのは彼が半端にもDUDSなことと、天性の悪運のお陰だろう。
「やっぱ映画みたいにはいかないよな……。痛たた……右腕折れたかも」
 彼はさっきのアクロバットな走行を自己評価している。バイクに乗っていなかったところを見ると、飛び上がったときにバイクから飛び降りたのだろう。だが当然無事に済むわけがない。だいたい動くものには慣性があるのだ。飛び降りたからって止まれるわけじゃない。頭が悪い。
 
「ギョオオアアアアア!!!!」
 蹲っていたそれが初めて咆哮を上げた。まるで今産まれたかのような産声とも取れる咆哮。それは獣のそれだった。
「やばいぞ!まだ動けるみたいだ。シャル行くぞ!」
 彼は素早く横になったバイクを立て直すと、私に後ろに乗るように言った。
 獣となったそれはさっきより二回りほど体が小さくなっていた。なんてことはない。きっとエサの分解が終わったのだろう。
「おい!シャル聞いてんのか!?くそっ!」
 彼は私がいつまでももたついていることに苛立ったのだろう。彼は私を後ろに抱きかかえるようにして乗せると自分もすぐにバイクに跨った。
「つかまってろよ!」
「え?」
 思わず、疑問の声が出る。
 なんと彼は車の間を抜け、分離帯を超えて逆車線に出ようとしているのだ。てっきり引き返すものかと私は思っていたのに。
 ガツンと大きな衝撃がバイクに走った。遅れて二回目の衝撃。これは後輪が分離帯に上ったせいだろう。そしてそれが来たころにはバイクの前輪は反対車線の路面についていた。
「危ない!」
 すぐ前をオレンジのワゴン車が通り過ぎていった。そう、こちら側の車線は今までの車線とは違って渋滞が無いため至ってスムーズなのだ。速度もゆうに80kmは出ている。
 だが、立ち止まるわけにはいかない。
 それはすぐ背後まで迫っている。
 
「リョーゴ!!」
「ちっ!本当にしっかりつかまってろよ!」
「っ!!!そっちは……!」
「いいから!」
 バイクの速度メーターがすぐに60kmを振り切った。高速道路ではこれくらいでは安全運転なんだろう。
 ただ、今このバイクは逆に走っている!
 進行方向と反対―――つまり時速80kmを超えて走ってくる自動車と向かい合って走っているのだ!

「リョーゴ!」
「シャル!後ろは?」
 彼を戒めるつもりが、反射的にその言葉に従ってしまう。今の彼にはそういう風格のようなものがある。
「追ってきてます。リョーゴ、前!」
「あっ!!」
 白い軽トラックがすぐ右側を掠めていった。こんな速度で正面衝突しようものなら結果は想像に小学生だって分かる。
「リョーゴは前を見ててください!ぶつかります!」
「分かってる!気をつける!」
「分かってない!今のだって私が言わなければ当たっていた!」
「だから次から気をつけるって言ってんだろ!」
 吹き荒れる向かい風の中、互いの風に埋もれそうな声を拾うように、叫ぶように言い合った。
 
「くそっ!あれ速いぞ!」
「だから前を見てろと何度言えば分かるんですか!」
「だから分かってるって言ってんだろ!」
「分かってません!貴方は何度言って……右っ!!」
 F1のような音を立てて、シルバーのスポーツカーが駆け抜けていく。寿命が5年は縮まった。
 
「貴方は人の話を聞いてないんですか!前を見てろと言ってるんです!」
「シャルが話すからだろ!」
「前を向いて話せばいいんです!」
「それじゃ聞こえないっつーの!」
「構いません!」
 会話を遮るように正面から来た白い乗用車をかわすためにバイクは大きく左に蛇行した。そして前からくる車を右へ左へかわしていく。
 だが、悠長に走っている暇はないのだ。

「リョーゴ!もっとスピードを出してください!追いつかれます!」
「分かってる!だけどこれが限界なんだ!っていうか同じスピードを維持するので精一杯なんだよ!」
「え!?それって……」
 どういうことなんですか?と言いかけて、このバイクの異常に気付いた。
 このバイクおかしい。さっきから感じている違和感のようなものはこのせいか。このバイクはアーツなのだ。いや、それもおかしい。これはアーツじゃない。今までに無い仕組みで走っている。
 私達アーティストは世界の歪みとチカラの動きを察知することが出来る。中でも世界の歪みに関しては自分のキャンバスのようなもので特に敏感である。このバイクはその両方の観点から見ておかしいのだ。世界の歪みなんてほとんどないくせに、チカラばかりがグルグルと渦を巻くように流れ込んでくる。それは水中で大きな魚がヒレを打っているのに、水面に波一つない。そんな光景に似てた。
「とにかくこれがギリギリの速度なんだ!これ以上いくと抑えられない!」
「だったらどうしろと……!」
 そんなことを言い争っている間に、それはバイクから後方2mほどのところまで迫っていた。腕を伸ばせば掴まれる。このままでは後10秒もしない間に追いつかれる。
「シャアアアアアアッ!!」
 爛れたようにだらしなく垂れ下がる皮膚、浮き出る血管、内臓をひっくり返したような体。黒ずんだ赤い肉の中で開きっぱなしの口から見える白い牙だけが浮いていた。そこにさっきまでの緩慢な動きはなかった。今のそれは捕食者のものだった。獲物を追うスプリンター。考えることは無く、体でそれを追っている。既に全身がバネのようにしなり、平泳ぎのような伸びのある走り。四足で駆ける生物は二輪の鉄にも負けはしない。
 そんな獣をどうしろと……
 
 バーン!
 私の黙考を吹き飛ばすように大きな銃声が耳元で鳴った。続けざまに4発、5発と鳴り響く。私は慌てて耳を塞ぐ。
 すぐに弾を使い果たし、トリガーを引く音だけが空しく響いた。半身になりながらトリガーを引く彼が手に持っているのは紛れも無く私の銃だった。
「シャル!弾!」
「リョーゴ!どこで私の銃を!?」
「ああ?さっきトランクから取ってきた」
 さっきというのはあの時だろうか。私はぼうっとしていて全くそのことには気付かなかった。
「貸してください!私が撃ちます!貴方は下手すぎる!」
 銃というのは彼のように片手でパカスカ撃てるようなものではない。その上私の銃のような大型なものになると両手で撃ったって、撃ち出す衝撃で銃口が上ずってしまうのだ。それは金鎚でおもいっきり銃身を叩かれている感覚に似ている。だから銃は銃底に押し付けるように構え、両手でしっかりと絞らなくてはいけない。
「ああ、分かった。シャルに任せる」
 何が分かったのか、彼はあっさりと銃を私に渡すと笑みを浮かべ前を向き、ハンドルを握った。それきり彼が後ろを向く気配はなかった。
 私は彼が使いきったマガジンを出し、新たなマガジンを装填した。私にとってこのログはゼロに等しい。
 彼の撃った銃弾が一発くらい当たったのか、あの化物との距離は10mに開いていた。だが、そんなのはすぐに詰められてしまう。なんせあの化物は少しずつ速くなっている。あの吐き気のする体の一部になりたくなければ、必死になって逃げるしかない。だがどこに逃げるというのか。私は逃げるというのには反対だった。今更協会の秘密主義を掲げるわけではないが、これでは人目につきすぎる。それに今でこそそれは私達を追っているが下手をすれば新たな犠牲者も出しかねない。彼に考えでもあるのだろうか。そのことを彼に聞いてみる。
「この先にあと2kmくらい行ったところに今は使われてない飛行場の跡地がある。そこなら誰も巻き込まないだろ」
 彼なりに色々考えているらしい。私は少し感心した。何も考えなしにバイクを走らせているわけでもなさそうだ。
 そして2発の銃弾を放つ。それは唸りを上げて距離を縮める異形の怪物の頭部に直撃した。普通の人間ならば一発で頭蓋を粉砕する。それを二発打ち込んだのだ。狙いは精確、距離は十分。

 獣の頭蓋が脳漿ごと宙に舞う。首は胴と一体化していて、首筋の筋肉が糸を引いた。
 だが、奴は止まらない。
 その糸は次第に太くなり、胴から伸びる幾重もの糸が飛んでいった首を捜し求めるように後ろに伸びる。それがまとまっていって直径3cmくらいのワイヤーほどの太さになると落ちた肉が引きずられるように体に戻る。
 もちろん体の方は少しだって速度を緩めない。
 
 
 彼は廃棄飛行場まで後2kmと言った。到着まではどんなに急いでも後一分強。
 問題はそれまで私達がもつかどうかだろう。
 








.54





「リョーゴ!そのまままっすぐ走ってください!決してかわさぬよう!」
「え?何言ってんだ!衝突するぞ!」
 バイクは目の前から走ってくる大型のバスと向かい合っていた。当然私達の後ろにはもっと厄介なのがくっついてきている。
「いいから!まっすぐ!」
「分かったよ!どうなっても知らないぞ!」
 落としかけたスピードを戻しながら、バイクは磁石で引き合うようにバスと向かい合う。このままぶつかればバスの方はたいしたことないだろうが、こっちは道路の端までクシャクシャになりながらはじきとばされるだろう。もちろんそんなのは御免だ。
 道路に響き渡るクラクション。
 だが、ここはまっすぐでいい。いや、まっすぐがいい。
「シャル!ぶつかるぞ!」
 気付けばバスは目の前だった。ナンバープレートがすぐ近くにある。ここだ!
 
「departure!!」

「え?」
 彼の驚きは背中ごしにも伝わった。さっきまであったバスは消え、私達はバスがあったはずの場所を走っている。私はバスを隔離したのだ。
「triumph!!」
 それから2秒後、私は再びバスを確立させる。それは後ろを走る追跡者への鎮魂歌!

「なるほど。シャルはやっぱ頭いいな」
 一人満足そうに微笑みながら、彼はにやにやと私の方を見る。
 私は小さく頷いて、彼に前を見るように声を上げた。全く何度言っても直らない。
 再び静寂が戻る道路。ただ行き交う車だけが路面を叩き―――
 
「シャアアアアアアッ!!!!」
 それは再び産声を上げた。生れ落ちたばかりの生命のような始まりの声。奴は傷つく度に産まれている。そして本能でやるべきことを行うのだ。故に、迷うことなく私達を追い始める。
「シャル今の!?」
 彼も気付いたのだろう。この目の開けられないくらいの向かい風を刺し引いても、奴の咆哮は十分なくらい聞こえる。それもそうだ。もとよりあれは獣なのだ。風に負けるような雄叫びなど持ってない。
「リョーゴ……。あと何分くらいですか?」
「あと1分くらい……」
 彼の声は次第に小さくなっていった。彼も分かっているのだろう。奴が私達を仕留めるのに60秒も必要ないことを。
 








.55





 続けて鳴る4つの銃声。ただ走り続けるバイクの上では銃声はすぐに遠くに走り去る。私が放った4つの弾丸はあの引き締まった筋肉の塊のような右胸、左脇腹、右腿、右膝に吸い込まれるように当たる。それは上体を崩し、路面に膝をつく。しかしすぐに復帰して走り出す。
 
 情勢は明らかにこっちが不利だった。
 むこうはどんどん走ることに慣れてきている。筋肉の使い方、力の入れ方、それぞれが次第にひとつの方向を向きつつある。体の形状も少しずつまとまり出し、走るものとしてふさわしいものになっていく。こちらがこれ以上速度を上げられない以上、まともにかけっこをやったら勝てっこない。
 加えて唯一の攻撃手段である私の射撃だが、これが思った以上の効果がない。正確に言えば、段々と効果が落ちている。最初の方こそ当たれば後方まで弾き飛ばしたが、今では仰け反らせるのが精一杯。4つ放って足止め程度。加えて、少しずつ弾丸をかわし始めている。だいたいこのコルトガバメントは普通の人間相手なら一発で軽く当たった部分を吹き飛ばす。それが奴相手には足止めにもなりはしない。
 
「ウギャヤヤアアアアアア!!!!」
 それは一段と大きい咆哮を上げると、四肢を大きく広げ地面すれすれを跳ねるように加速する。胴体部分に照準を合わせ、マガジンに残っている5発全部を撃ち込んだ。
 最初に撃った二発はその筋肉の壁のような腕に阻まれた。もう私の銃ではあの化物の腕さえ貫通できない。残った3発が胸に当たり、それは少し上体を崩す。そこに続けざまに4発の弾丸を放つ。
 異形の怪物は耳を劈くような叫び声を上げて、ずっと遠くに吹き飛ばされる。それは背中にゴムでもつけて思いっきり後ろに引っぱったみたいに、先の見えない道路の果てに吸い込まれるように消えていく。しかしそう思ったのも束の間、それはさっきよりも強く、速く、賢くなって距離を詰めてくる。さっきからずっとこの繰り返し。こちらに奴を倒す決定的なものがない以上、この持久戦は確実に奴に分がある。
 つまるところ拳銃や奴を倒せない。パーツパーツを吹き飛ばしたところで、あれはすぐに再生してしまう。あれを倒すには点ではなく面での攻撃が必要なのだ。現にあれに効果があったのは弾丸による直接的な外傷よりもそれに伴う衝撃だろう。せめて散弾のショットガンがあれば状況は変わっただろうが、生憎こちらの手持ちは拳銃一丁。これでは焼け石に水。たとえこのまま廃棄飛行場に奴を誘い込んだとしても勝ち目は薄い。

「シャル?」
「なんですか!運転に集中してください!」
「たいしたことじゃないんだが、さっきから車が減ってないか?」
「車?」
 そう言って私は辺りを軽く見回す。もちろん奴から目を離したりはしない。
 おかしい。さっきまでは轟々と唸りを上げて走っていた対向車が全くない。減っているどころではない。一台もないのだ。理由なんて考えもつかない。ただ、そんなことを気にしている場合ではない。私は彼に運転に集中するように強く言い、眼前に銃を構えた。

 もう10回を数える奴のアプローチ。こちらも弾丸を全て撃ちつくす覚悟でトリガーを引き続ける。距離を詰められたら負けだ。一度でも奴の間合いに入ったら終わりだろう。
「シャアアアアアアアッ!!」
 だらしなく涎を路面に撒き散らしながら、それは距離を詰めてくる。その差わずかに3m。これが最終ラインだ。これ以上の接近は許せない。
「ガウアアアアアアアッ!!」
 距離は縮まっていく。すかさず次々に弾丸を撃ち込む。だが、奴はもうかわそうとすらしない。私の撃った弾丸は奴の体にのめりこむように消えていく。そしてまるで何事もなかったかのように奴は近づいてくる。それはもう手を伸ばせば届く距離。まずい!
「リョーゴ!追いつかれます!スピードを……」
 彼はさっきそれは無理だと言った。だが、今はできるとかできないとかそういうことを考えている暇はない。やらなきゃやられるだけだ。
「しょうがない。悪いが、これ以上上げたら抑えきれないと思う。だから飛行場まで行けるかどうかわからない」
 そう言いながらも彼も分かっているはずだった。このまま追いつかれるよりはそれに賭けるしかないことを。

 彼は少しだけ肩を上げて深呼吸した。奴はすぐ手前まで迫っている。もうじき奴の射程に入る。奴は四足で走っているから、捕らえるならバイクの真下に入るくらい近づかないとならないのだろう。
「シャル、捕まってろ」
 私は無言で彼の体にしっかりと腕を回した。

 瞬間、世界は早く、その光景は閃になる。
 あらゆるものが細く長くパノラマに引き伸ばされ、色を失う。
 それは数多棚引く、瞬間の世界。
 









.56





 気付いたらアスファルトが目の前にあった。
 右肩から地面に落ち、痛みが伝わる前に方が路面に叩きつけられたことに気付いた。
 それから分かった。落ちている。
 
 ガシャーン、と鉄がアスファルトを削るような音がして私は地面に投げ出された。彼は私より4mほど前を転がっていて、バイクはそれよりさきの側壁にぶつかっていた。
 失敗だったのだろうか。私には何が起きたのか分からなかった。急に体に圧力が掛かったかと思うと、地面に投げ出されていた。
「く……あっ……シャル、悪い。やっぱ無理だったみたいだ」
 右足を引きずるように体を起こすと、彼は申し訳なさそうに私に言った。私も地面に落とした右肩が痛んだが、彼の方が数倍ひどい怪我だった。彼の右半身は血まみれだった。DUDSだからって痛みがないわけじゃないだろうに。
 そして彼は私よりもっと奥を見た。
 その瞬間寒気がした。背筋を走る初めて感じる体が波打つような震え。獣の雄叫びがする。まだ50mほど遠くにいるところを見ると、このバイクがあの一瞬でどれだけの速度で走ったのだろうかとぼんやりと考えた。
 彼は倒れたバイクを起こしてこっちへやって来た。バイクはもう走れるようには見えなかった。原型こそ保っているが、ハンドルは捻じ曲がり胴体部分もあちこちがボコボコへこんでいた。バックミラーなんてものはとっくに折れてどこかへいってしまい、もうバイクと呼べるかも難しい。
 
「もう少しこれ借りるぞ」
 彼は腰に差した短剣を取り出した。いつか私が貸したあの短剣。
「シャルは先に行っててくれ。俺は後から行くから」
 彼の言っている意味がよく分からない。いや、分かる。だけどその通りだとしたら彼を思いっきり殴ってやりたい。
「なんだよシャル。反論は受け付けないぞ。バイクはなんとか動くようにするからそれに乗って……」
 彼は本当に何も分かっていない。彼が正しいと思うことはいつも私を苛立たせる。
 私が一番嫌いなのは彼みたいに分かった顔して、さも当然のように自分を犠牲にして人を救おうとする者だ。
 そういうのは楽だろう。何も考えなくていい。一番綺麗な正解が転がっているんだ。迷うことなくそれに乗ればいい。ただ自分が死への恐怖を克服するだけでその正解に辿り着ける。
 そんなものは私は認めない。
 どんなにそれが美しくても、
 どんなにそれが正しくても、
 きっと、きっと違う道があるはずだから―――。
 それを探しもしないで、諦めるように綺麗なものを選ぶのを私は許さない。
 最後まで、最後まで醜くあがいて―――じゃないと残された者はどこへ行けばいいのか分からなくなる。
 
 前を歩く人が綺麗な道を進んで、私を庇うために綺麗に落ちて行った。
 人はそれを美しいという。人はそれを立派だという。
 なら、残された者はどうしたらいい。
 犠牲の上に立って生きることは辛い。その犠牲が綺麗であればあるほど、私は自分の道を歩けない。どんな道だって霞んで見える。
 だから私はこれ以上私の前で分かった振りをして身を投げる人を許さない。


 それは貴方も同じだ!九堂亮伍!


 彼は呆気に取られた顔をして私を見た。背が違うから自然と私は見上げる格好になるが、それでも私の怒りは十分に彼に伝わっただろう。
 生まれて初めて人を殴った。こうして気持ちを伝えればいいんだ。これでまだ彼がふざけたことを言ったらもう一度殴ってやろう。
 「貴方はまた私を怒らせるつもりですか?」
「…………」
 彼は答えない。その間にも獣の爪がアスファルトをひっかく音が近づいてくる。
「そんな勝手な死に方を私は許さない」
「…………」
 車が通らない高速道路はこうも静かだったか。今は蹄と爪の中間のような鉤爪の駆ける音だけがリズムを刻む。
「……手がないわけじゃない」
 長い沈黙の中――それは実際には秒にも満たないだろうが――彼は口を開いた。
「あれを倒すには圧倒的な面積で衝撃を加えてやらないといけない。二度と再生できないくらいに粉々に吹き飛ばす圧倒的物量と速度が必要だ」
 分かってるじゃないか。だが、それができたら苦労はしない。こちらの手持ちの装備ではそれは不可能だ。
「シャルがいない間に……俺も気づいたことがある」
 彼はバイクの車体を起こし、そのハンドルをあの怪物に向けた。
「これが外れたら終わりだ。まあ外れないから安心しろ。世界で一番速い弾丸だから」
 そう言うと、彼は方膝をつきバイクの後部車輪に片手を置き、ゆっくりと目を瞑った。

 世界が軋む。
 音を立てて軋んでいく。
 それは水を含んだタオルをきつく絞るように、この辺りのチカラが無理矢理集まってくる。
 まるでここだけ穴が空いたように、流砂に落ちる砂のようにチカラの奔流が渦を巻く。
 さっきの比じゃない。
 無秩序で、無造作。それを律するものはなく、それに無駄な装飾はいらない。
 単純で分かりやすい無色の単線。
 

 そしてそれらがバイクを包み込むように染み込んでいく。
 それを染め上げ、満たしたその時―――鉄の単車は弾丸と化した。








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