第七話 二人でお茶を/Team
49.
平日の昼間などという気楽な時間帯のせいだろうか。車内はガラガラに空いていた。そのまま俺は後ろから二番目の席に座り、ガタガタと鈍く揺れる背もたれに軽く寄りかかる。タイヤの真上だからだろうか。振動が少しダイレクトだ。地面の段差を深く腰掛けた座席からそのまま感じる。久しぶりに乗る初体験のバスは色々難しい俺を乗せてバス停を出た。
乗用車とは違う独特の広がった振動に揺られながら、俺はさっきバス停で見た路線図を頭に浮かべ目的地までどのくらいかかるかを計算する。目的地は春河市立病院。この街にある市立病院。俺が搬送されたり入院してたのはこの病院だ。ものすごく世話になっている。ここから病院までは15分〜20分。それくらいだろう。なんとなくの足し算でケリをつけ、俺は膝の上に置いたトートバックから上をピンで留めた紙の束を取り出す。色々書き込みがされて、色とりどりの付箋が貼られた紙の束。
昨日コトーさんの事務所をひっくり返した成果がこれだ。
+
「あった」
いつだったか、初めて湖東さんではなくコトーさんに会ったとき、あの時にあの人がしきりに付箋を貼ったり、書き込んだり忙しそうにしていた書類。いつものほほんとしているあの人にしては珍しい行動だったと思う。
あの人がいなくなった事務所。主がいなくなったからといっても突然消えるなんてことなく、当然のようにここは何も変わらない。シャルはそんな高価そうでもないソファーに横になって寝ている。その辺りに高級感を感じさせないところがコトーさんらしい。
束になった書類を手にして立ち上がろうとすると、急に逆らいようの無い脱力感に襲われ、思わず机に手をついた。頭がくらくらする。体が熱い。朝からずっとこの調子。無理はよくないと身体全体が主張しているようで笑えない。
俺の体は今日になって急に不調を訴えだした。やっぱり昨日のあれは無理があったのだろうか。文字盤のずれた時計のように俺の体は狂いだした。右へ左へ定まらない鼓動。息を吐き出すたびに亀裂の入ったように痛む体。くらくらと気を抜くとこのまま倒れてしまいそうだ。
でも、動けないほどじゃない。俺のやるべきことは変わらない。最初からそれはきっと変わってない。ただ、今ははやるべきことからやらなきゃいけないことに変わっただけだ。どっちにしろやるんだからどっちだって同じだろ?
カツカツとデスクで3cmほどの厚さがある書類の束の端を揃えて、改めて一枚ずつめくっていく。紙にはぎっしりと名前など多くの人の個人情報がタイプしてあって、一通り目を通すだけで骨だ。だがコトーさんがやったのだろう。名前には赤いペンでチェックがしてあって、多くの名前は斜線で消されていた。消されていないのは……ざっと20人前後。これは全部調べるだけでも大変そうだ。せめてもの救いだったのは対象者は全て一つの病院にいるということだった。まあこんな大きくも無い街だ。まともな病院は市立病院がひとつだけ。
そう、この書類はこの街の病院の個人情報。考えてみれば当たり前のことだった。怪我や病気がDUDSへの原因に繋がるのなら病院は一番注意すべきところだろう。なんせあそこには病人怪我人が溢れている。うまく集まればDUDSの軍隊ができるんじゃないか?
+
ぷしゅーという気の抜けた音と共にドアが開き、15分ほど走り続けたバスはゆっくりと止まった。予めおつりの無いようにしておいた小銭を小口に放り込み、俺はバスを降りた。少し辺りを見回してすぐにそれらしい建物があることに気づく。なんで病院ってどれも白いんだろうな。
開けっ放しの門を過ぎる。広い駐車場。緑の多い敷地。白い建物だけが空に浮かぶお城みたいだった。歩き始めて2,3分と経たないうちに入り口が見えてきた。今流行りのバリアフリーだろうか、階段らしきものは無く小さなスロープがついていた。入り口に立てば待っていたようにドアが左右に開き、すぐに受付のようなものが見えてくる。懐かしい病院独特の匂い。薬の匂いとか消毒の匂いとか、白衣を連想させる匂い。静かな院内。書類をめくる音や、患者のひきずる点滴の車輪の音、看護婦の尖った足音。普段なら鳴りを潜める小さな音が幅を利かす不思議な世界。
ここでは怪我人や病人が主役で健康な人間が脇役。そういう意味では少しあべこべになっている。
「さて……」
誰にでもなく小さく呟き、もう一度バックから例の書類を取り出す。
「関口祐一……306……2階か」
面会の順番は適当に決めた。と言うのも実際、誰が怪しいかなんて俺には分からないからだ。リストには誰々が怪しいとか書き込みがあるわけでもなく、リストに書かれているのは名前、電話番号、入院の日付などの情報に過ぎず、病状などのことは全く書いていなかった。でも病室の番号が書いてあったのは助かった。これで一日に何度も同じ病室を訪れるなどという非効率なことをする心配はなくなった。さすがに一日に何度も同じ病室に足を運ぶのは目につき過ぎる。
さて面会には許可必要な場合がある。というか、正式にはこの病院にも許可が必要なのだ。病院に入ってすぐの受付で患者と自分の関係などを簡単に記入して……という手順があるのだが、この辺りはあって無いようなものになっている。よくある形式的なものが簡略化されて……という流れだ。そのため患者が個室に入院していたり、重病を患っていたり、手術の前だったりしない限りは比較的面会は自由なものとなっており、大部屋の面会においてはほとんどフリーな状況になっている。
まあ俺の書類の中にも数人個室に入っていたり、手術前の人もいるんだが、この辺はその場その場のアドリブでなんとかなるだろう。こっそり……でいいと思う。なんせ俺はあまり堂々とできる立場にはない。顔を覚えられるとまずかったりする。だって入院生活の長い俺でさえ20人近くの人と面会するような奴は見たこと無いだから、いきなり名物面会者になってしまう可能性大だ。加えて俺は咄嗟に嘘がつけるほど頭が回るわけでもないので、できる限りを気をつけるに尽きる。
俺はできるだけ自然に、できるだけおかしくないように2階への階段を上り始めた。こういう時って気にすれば気にするほど、どんなのが自然なのか分からなくなる。歩き方ひとつでも足をつく位置まで気になってくる。気にしすぎだよな。きっと俺は周りから見たらノリの効き過ぎたYシャツみたいにパリパリとした動きだったと思う。
そうしてU字になった階段を上り終えると、だだっ広い廊下が左右に伸びていた。ピカピカに磨かれた廊下。端から端までどのくらいあるのだろう。走り甲斐のありそうな廊下。
少し上方に視線を上げると、部屋番号を示すプレートが突き出ていた。まあそんなのは見なくても306がどこかくらい分かる。なんせ俺は一年も――目が醒めてからは一ヶ月だが――この病院にいるのだ。如何にほとんど部屋から出なかったとはいえ、多少の目星はつく。
「どうしようか……」
よく陽の入る明るい廊下を歩きながら、思わず情けない声が出る。問題はどうやってそいつがDUDSかどうかを調べるかにある。あまりに当然の問題。というか目的に問題があるってどうよ。
コトーさんやシャルだったら、世界に歪みとかなんとかで分かると言っていた。セカイを操る彼らは世界の動きに敏感らしい。その歪みからDUDSを判別することができる。ところが俺にはそれが分からない。俺も一応はDUDSらしいのだが、その繋がりはひどく細いものらしい。現にアーツだって使えたためしが無い。
でも俺には―――。
306号室は大部屋だった。昼間はドアは開けっ放しである。それは看護婦さんが世話しなく出入りするためであろう。
俺は一度開きっぱなしのドアの前を通り過ぎる。同時に中の様子を伺う。別に看護婦さんがいたところで今のところ疚しいことはないのだが、これからのことを考えると違う病室で何度も会うのは非常によろしくない。そういうわけで俺は中に白衣を着た人がいないことを十分に確認して何食わぬ顔で中に入った。中には6つほどのベッドが据えつけられていて、それと同じ数の病人がそこに横になっていた。手前の2つのベッドと一番奥の左側のベッドにはそれを囲うように天井から薄いピンクのカーテンが掛かっていた。
でもそれも関係ない。俺は他の患者から見えないように手前のカーテンのかかったベッドの影に移動する。そして少しだけ目を閉じる。集中。
この数日で急速に俺は感覚を掴みつつあった。初めて自転車に乗ったときのようなコツのようなものを掴んだ感覚。最も自転車に例えるならばいきなり角度45度の急斜面を補助輪なしで突き落とされたようなものだが。そりゃうまくなるはずだ。それは例えるならば自分の体を裏返しにする感覚。皮膚をめくり、内臓を引き出し、骨を捻る。外が中に中が外に。思い出しながらそれを忘れる感覚。
そうすると途端にやってくる逆らいようのない眩暈。そして薄れる意識。分かる。俺の意識が薄くなるのは俺を守るためなんだろう。電気のブレーカーが落ちるように無意識下で俺の体を守っている。
俺は霧を見ようとするとなぜか過去の記憶がふと蘇る。過去なんて覚えちゃいないのに、それが過去だって分かるのはなんでだろう。
ただ、やってくるのはそれだけじゃない。押しつぶされそうなプレッシャー。それは比喩じゃなくて本当にそうなんだろう。きっとこのままでいたら俺はパンクしてしまう。自分の容量を大きく上回る何かが入り込んでくる。空気を入れすぎた風船のように俺の身体は脆く危うい。
だが、その限界のところで自分を留める。破裂しそうな体を抑え、目を開く。そして現れる俺のセカイ。
病室はいつにも増して白かった。白い壁、白いシーツ、白い床、白い霧。なんで病院っていうのはどこも白いのだろうか。
病室には白い霧が現れた。それは真っ白な背景を用意しても白だと分かるくらいに白かった。だが、別に不審な点はない。霧はあるけど先が見えないってほどじゃなく、入り口の反対側にある窓の枠だってしっかり見えるほどの濃さ。これくらいなら今のこの街なら標準レベルと言えるだろう。
ざっと病室を見回す。見るのは人。カーテン越しだって関係ない。俺にはどれがターゲットだかなんて分からない。本当はしっかりと確かめればいいのだが、看護婦に聞くわけにいかないし、当然のように「本人ですか」と尋ねて回るわけにはいかない。
加えて困るのはDUDSかどうか調べるのには時間がかかる。誰だって自分の横で何も言わずにぼーっとしている不審者がいたら即座に人を呼ぶだろう。その辺はほとんど運任せとなってくる。見つからないことを祈るぐらいしかできない。
それでも俺はここにいる全ての人を見ていかないといけなかった。それは大変な量だった。相手は一人じゃないのだ。それを一人ずつ観察していくのは骨だ。
軋む体と折り合いを付けながら、一人ずつ体の線を追うように見ていく。頭、腕、胸、脚。そうして一通り見終わると頭を切り替える。さっきと逆。裏返ったものを元に戻す。そして視界は少しずつピントを取り戻す。
「ふー」
小さく息をついた。気付けば全身汗だくだった。背中は長袖のシャツにぴったりとくっついてベトベトと気持ち悪い。脚もジーンズの生地の色が変わるんじゃないかというくらい汗をかいている。
俺はよたよたと壁に手をつきながら病室を出た。誰かに見られなかっただろうか。あの場所は廊下からは死角になっているから部屋に誰も入ってこない限りは部屋の患者以外は気付かないはずだが。だからといって見られていないという保証はない。ええい、こんなことを考えていてもしょうがない。怪しまれたら怪しまれたでいいし、捕まったらそのとき考えればいい。
ちらっと左手につけた腕時計を見る。白い文字盤を黒い針がカチカチと律儀に刻む。今の時刻と部屋に入る前の時刻を比べてると……5分も経っている。俺は5分もあの部屋にいたのか。どうにも霧を見ているときには時間の感覚が曖昧になる。いや、時間だけに限らない。全てが曖昧に感じられる。麻酔を嗅がされているような……そう考えると痛覚なども曖昧になっていいのかもしれない。
それにしても、これは先が思いやられる。今回は誰にも見られなかったが、次回もそうだという補償はない。寧ろそうでない確率のが高いだろう。既に俺の体は沸騰している。体全体が熱を持って、風邪を引いたみたいに頭が重くガンガンする。いや、頭だけじゃない。体全体が揺れている。ただ最も危ういのが頭なのだろう。これ以上こんなことを続けていて体はもつのだろうか。
さっき来た階段を通り抜け6mほど歩くと小さな円形のホールが見えてくる。廊下はちょうどその円の真ん中を突っ切っている形になっている。そこには大きなテレビが一台あって、たくさんの黒い革塗りのソファーが置かれていた。そしてぽつりぽつりと病人服を着た患者達がテレビに顔を向けたり、新聞を読んだりしている。俺も溜息をつきながら近くにあるソファーに腰を降ろした。途端に体を襲う強いだるさ、目の前が黒くなったり白くなったりして面倒だから目をつぶった。
体は限界だ。なんせ昨日の今日なのだ。まだ体も本調子じゃない。弱気になる自分。そんな自分を叱咤するように大きく拳を振るって自分の腿を叩く。少し鈍い音がしたが誰も振り返ることは無かった。そして待ち構えていたかのようにくらくらと頭が揺れる。
「ふー」
大きく息を吐き出しながら立ち上がる。いつまでもこうしていられないだろう。残された時間はない。ホールの完成は近いとコトーさんも言っていた。今日中に犯人を捜さないと……はっきりとした時間が分からない以上早く行動するに越したことは無い。体だってまだ動く。あとはその場その場でアドリブを利かせばいい。
そうだろう?痛みには耐えられる。俺の痛みなんてたいしたもんじゃない。強がりはあの人の得意なもののひとつだった。ヒーローというのは辛い時には笑って歯を食いしばるものだ。
「よし」
軽く両手を叩き、少しでも元気に見えるように歩き始めた。
前に見えるのはどこまでも続きそうな廊下。果ての無い道は気分だって重くなる。
でも少し顔を上げればそうでもない。それはとても走り甲斐がありそうな、ただの長い廊下だった。
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