46.




「くそっ!」

ぶつけようのないものを吐き出す。

自然と突き出した拳は壁にあたり、かつんと乾いた音を立てた。

そして数秒遅れて気が狂うような痛みが追ってくる。

パノラマで水族館のような窓の下では自動車が車輪の生えた積み木のように世話しなく道路の上を滑っていた。

この辺りのホテルではここが一番高いらしい。

もっとも高いというのは値段ではなく単純な建物の高さである。まあ値段もそれなりには張るが。

ゆっくりと体を少しずつくねらせながら椅子に座る。

今はそれだけで重労働なのだ。いや、本来なら一ヶ月は絶対安静だろう。

体は傷だらけだった。無事な箇所なんてありはしない。

特に内臓へのダメージが大きく、食べてもすぐ吐いてしまう。

骨もバラバラ。折れるというより砕けている。どうにか左腕がかろうじで上がる程度だろう。

「ああああ!!!!」

黙っているとぶつけようの無い何かがこみ上げてきて、胸の辺りに溜まっていく。

だからこうして定期的に散らせないとだめなようだ。

「うあ………っ」

声を出すだけで胸にヒビが入るように全身が軋む。











オレは初めて負けた。

オレが負けないと決めたあの日から、初めてオレは負けた。

体はボロボロだった。

血止めだけはしてあるが、これ以上ここにいるのは危険だった。

怪我はいい。別に直そうと思えばどうにかなる。

だがここはホール。下手をすれば世界が勝手にチカラを押し付ける。


這うように壁に手を突きながら街を離れる。

公園から少し離れた道路脇でオレはガードレールにもたれかかるように座り込んだ。

今回のホールはなぜか知らないが異常に範囲が狭い。

オレの目測では直径5kmあるかないか。まあまだ大きくなる可能性は多分にあるのだが。


少しだけ体をずらし、ガードレールを背もたれに楽な姿勢で座りなおす。

無機物特有の真剣な冷たさが熱くなった体に気持ちよかった。

自然と目に入る自分の体。

少し意識すると落書きのように走る傷口は少しずつ小さくなっていった。

見た目だけだが出血は抑えられるだろう。

今はこの街から離れることが先決だった。


少し道路から身を乗り出し、運良く通りがかったタクシーに乗り込む。

血だらけのオレを見て、一瞬運転手は凍りついたが半分脅すような形で走らせた。

この分じゃ降りた途端に通報するような勢いだ。

寝床の前までは乗せてもらえそうに無い。

適当に近くで降りて歩いていくことになるだろう。



20分ほど空いた道路を走り、駅前でタクシーを降りる。

そしてそのまま駅とは逆方向―――駅の近くのホテルに向かった。

時刻は11時過ぎ。

それでも街は明るく、人通りも多かった。

あの街に比べてこの街はずっと都市化が進んでいる。あの街も少し前から高層ビルの建設も始まり、5年もすればこの街のようになっていくことだろう。


奇異の視線を受けながら、足早にホテルの自動扉をくぐる。

ぽつぽつと人が行き来するロビーを隠れるように通り抜け、エレベーターに乗り込んだ。

幸いこの小さな個室には誰もいなかった。

32と書いてある洒落たデザインの丸いボタンを力なく押した。

音を立てることも無く扉が閉まり、それと同時に気が抜けたのかズキズキと熱を持った傷が痛み出した。

途中2回ほど止まったが、俺の姿を見ると誰も彼も視線を逸らす。そして誰も抱えることなく、ポーンという耳に残る電子音と共にエレベーターは最上階――32階についた。

よたよたと壁伝いに自分の部屋まで歩いた。

疲れが出たのか何度も目の前が柔らかいストロボを焚いたように真っ白になり、何度か休みながら30mほどの廊下を這うように進んだ。














「ヒューゴ君、もういいです。こんなこともできないとはやっぱり君はクズだ」

周りの人が次々に席を立ち、自分だけが広い教室に残される。

そして教卓の前に険しい表情して立っている教官の方をできるだけ見ないように、オレも遅れて歩き出す。




いつものことだった。

オレはみんなが当然のようにできることができなかった。

なんていうか、落ちこぼれ。そういう言葉がしっくりとくると思う。

その日は物理の授業だった。

オレ達にとっては5本の指に入るくらい大事な授業。世界の理の一側面を習う。

そして授業の最後、教官はひとつの陶器のカップを取り出した。

オレはこの授業が嫌いだった。

物理が嫌いなわけじゃない。この最後の儀式のような流れ作業が大嫌いだったのだ。

やることは単純だった。一人ずつ割れたコップを直しそれをまた割って金属のトレイに入れて次の人に回す。それが一巡して授業は終わり。終わった奴から教室を出る。あの教官はいつも授業の最後にこれをやる。

カシャーン、カシャーン。

段々とコップの割れる音が俺の席に近づいてくる。

そしてついに俺の前の席に回ってきた。

そいつは隣の席の奴としゃべりながらそれを直し、粉々にしてオレに回した。

別にそこまで割る必要はないのだが、なぜかオレに回ってくるコップは他の奴等よりずっと細かい破片でできていた。

そしてそいつもオレを見てにやりと気味の悪い笑みを浮かべながら教室を出る。

もう教室に残っているのはオレと教官だけだった。

オレは目の前のコップの破片に意識を集中させる。

やることは簡単。基礎の基礎。物体の修復。

もとより完成形を知っているのだから、それをイメージして作り出せばいい。そういう意味でこれは基礎の基礎。誰でも目を瞑ってもできるといったようなものだった。

でもオレはみんなができることができなかった。

いつまでたっても壊れたコップはそのままだった。

少しだって直りはしない。

オレはそれでも諦めなかった。割れた破片を前に何時間でも粘ってやろうとイメージを集める。

だが、そんなオレを待つことなく教官は何かごちゃごちゃと言うと教室を出て行く。

オレは誰もいない教室で陶器の破片と睨み合っていた。

それでも一向にそれが直る気配はない。

オレにコップが回ってくるのが一番最後なのはそういうわけなのだ。




オレには才能がない。

人は口をそろえてそう言った。

なんせ基礎の基礎のアーツすらできない。おちこぼれ。

オレはそれでも努力した。周りの奴等が呆れるくらい努力して、誰よりも頑張った。

がんばれば、がんばれば絶対できると思った。


でもオレは何もできなかった。


次第にオレは孤立していった。友達と呼べる人もいたけど、みんないつの間にかオレに声を掛けることは無くなった。

その原因の一つはオレの父だろう。

オレには父親がいた。教官だ。

それもエージェントあがりの教官ではない。最初から教官になったのだ。

オレ達の世界ではそういう奴は負け犬といわれる。

戦場で死ぬかもしれない恐怖に負けて、その中での競争に負けて、それに負けるのすら恐がって教官になる。そんな目で見られる。

その息子のオレも例外じゃなかった。

負け犬の息子。

それだけでオレは見下されてきた。

負け犬の子は負け犬。

それでもオレに才能があれば、そんな奴等の言うことをひっくり返すくらいの実力があれば……。

でもやっぱり負け犬は負け犬だった。

オレには才能なんてない。

どんなに頑張っても結果は出なかった。

他の奴等が一回でできることを俺は十回かかってもできなかった。

教官はもっと頑張れという。努力が足りないという。

オレだって頑張っているのに。














オレは父親が大嫌いだった。

理由なんてない。言うまでも無い。オレはあんたのせいでこんなに苦しんでいる。

父はオレを責めることは一度も無かった。ただ何も言わずに目を逸らす。

オレはそんな父親が大嫌いだった。

いつも自信なさそうに俯くばかり、生徒には馬鹿にされ負け犬扱い。

なんで言い返さないのか。言い返せないのか。

そう考えるとなんだか情けなくなって悲しくなった。




ある日、オレは一度だけ父親に訊いたことがあった。

なんであんたは教官になったのか。

訊くまでもないことだった。どうせ戦いが恐くて流れてきたのだろう。

でもそんな分かりきったことをその日は訊いてみたのだ。理由なんて無い。きっとその日はそういう日だったのだと思う。

父の答えはオレの思ったとおりだった。

戦いが嫌いだから戦わなくていい教官になった。

やっぱり父は負け犬だった。

何かを期待したわけじゃない。でもやっぱり他の奴等が言うのと本人が言うのとでは違った。オレは少しショックを受けたと思う。やっぱり父はこういう奴なんだ、と。

オレはそれがよく分からないけど、すごい頭にきた。

分かりきっていたことだけど、それをさらりと認める父親が嫌だったのか、そんな父親のせいで自分が苦しむ不条理に腹がたったのか分からない。

だからオレはその日、思いつく限りの罵倒の言葉を父に言った。


何であんたはそんな情け無いんだ。

何であんたは戦わない。

何でオレが苦しまなきゃいけないんだ。


今考えれば、全くの見当違いの言葉も多かった。オレ自身の問題も全部父親のせいにした。


全部あんたが悪い!

あんたが教官になんてなるから!


思いつく限りの侮辱の言葉を大声で叫び、乱れた呼吸を調えながら言い忘れたことはないか確認する。

父は黙ってオレの言うことを文句も言わずに聞いていた。

実際、聞いていたかどうか分からない。父は反応の薄い人だから、ぼうっとしていただけかもしれない。


言いようの無い沈黙が部屋に響く。

父は自分からしゃべるということはほとんどない。オレが黙ると自然とこうなる。

そして部屋を出ようとしたオレに向かって、無口な父が珍しく自分から口を開いた。

「ヒューゴ。お前は戦いが好きか?」

地面に向かって呟くような問い。うっかりすればドアの軋む音に隠れてしまうだろう。

オレは迷うことなく「そうだ」と答えた。

肯定も否定も無い。だってこの世界にはそれしかないのだ。それができない人間は負け犬なのだ。

「そうか」

父の誰に言ったのか分からない言葉に向かってドアを叩きつけるように閉めて、オレはそこを後にした。


思えばそれが最後の父の姿だった。











47.




それはいつもと変わらぬ授業だった。

いつものようにオレは授業が終わると教室に残され、教官の小言を浴びせられる。

どうやらオレみたいな飲み込みの遅い生徒は教官にとってやたらと鼻につくらしい。

それも慣れたこと。オレはいくら努力しても落ちこぼれだった。




30分ほどしてやっと解放されたオレは宿舎に向かって歩き始めた。

まだ次の授業まで1時間ある。もう一度“変化”の基礎に挑戦しよう。

空いた時間は全て勉強に回した。

オレみたいな飲み込みの遅いのはそうすることでしか、追いつけないのだ。

人の10倍も100倍も努力して、やっとスタートラインにつける。

それでもそれはオレにとって苦ではなかった。

オレは努力することは嫌いじゃなかった。がんばれば、努力して努力して、そうすれば絶対に追いつける。

そう信じて追いかけることはそんなに悪くない。



そして宿舎に帰る階段の踊り場、そこの窓から隣の校舎の教室が見える。

いつもはこの時間、父の姿が見えた。

オレはなんとなく行き詰ったときとか気持ちが焦るとき、なんとなくこの場所に来てしまう。

オレは父親が大嫌いだが、それでも少し心が落ち着く。理由なんて分からない。親子のつながりとでもいうのだろうか。あんまり好きじゃない。

よく向かいの教室を見てみると、あの人の授業なんて誰も聞いていない。生徒はみんな机に突っ伏して居眠りをしたり、他の勉強をしたりしている。

父の授業はそれほど魅力がないのだろう。それはオレもよく分かる。あの人は教官に向いてない。

そしてそういう生徒の行為に気づきながらも見て見ぬ振りをして授業は続く。

それがいつもの父の授業。

だけどその日は父親の姿はなかった。

でもオレは特にそれを気に留めることなく、宿舎に戻った。











その次の日も父の姿は無かった。

その次の日も、そのまた次の日も父の姿は無かった。

何かあったのだろうか。

でもああ見えてもあの人は健康な方だった。それに風邪をひいたくらいなら平気で授業に出る。

大きな怪我や病気だったらオレにも連絡がくるはずだ。

オレは特に気に留めることなく、宿舎に戻った。

でも、それでも少し気になったのは親子のつながりとかいうやつだろうか。やっぱりこの言葉は好きじゃない。











父が帰ってきた。

なんでも少しアカデミーを離れていたらしい。

オレはその知らせを聞くと同時に急いで、本当に急いで、今までにないくらい急いで中央ロビーに向かって走り出した。

廊下を人にぶつかりながら走りぬけ、階段を3つ飛ばしで駆け下りて、信じられないくらいのトップレコードでロビーについた。

そこには既に多くの人が集まっていた。

教官、エージェント、野次馬に集まった生徒達。2,30人近くの人が輪を描くようにそこに溜まっていた。

オレはそれをかき分けるように、半ば突っ込むような形で輪を突き破った。

どいてくれ!どいてくれ!

その時オレは何を言ったのか覚えていない。

ただ、頭の中がごちゃごちゃで、それを見たときにやけにクリアになった感覚は覚えている。

オレは輪の中心にあった黒い棺を強引に引き剥がし、無心で叫んだ。

それを見た途端、オレの頭は真っ白になった。

大人しくなったオレを尻目に周りの人がまた棺の蓋を閉めなおしていた。

オレはそれが閉まりきるのが許せなくて、閉めようとした人たちを夢中で殴りつけた。

なんで!なんでだよ!

すぐに周りの人達に両脇を抱えられ、押さえつけられる。

はなせ!はなせよ!

オレの声はロビーの隅々まで響き渡って、空っぽの廊下に吸い込まれる。

そして程なくオレの目の前から父は運ばれていった。

オレはそれを追うこともなく、一人ロビーに取り残される形で呆けていた。









父の死因は一番あの人に縁の薄いものだった。


戦死。



最近の戦いでの戦力不足解消のための緊急徴兵に自らすすんで志願したそうだ。

父は自分から戦地に赴いたのか。

あの人は教官だった。

戦うのはエージェントで教官は戦う必要は無い。

だが時折、戦力が乏しいとき、戦力不足の際に有志でエージェントを募るときがある。

それは強制ではなくあくまで志願という形であり、戦いたくなければ戦わなくていいのだ。


なぜ父は志願したのか。

そんなのはオレにしか分からないだろう。



何であんたはそんな情け無いんだ。

何であんたは戦わない。

何でオレが苦しまなきゃいけないんだ。


あの日、オレは考えられる限りの自分の不幸を全て父にぶつけた。

オレは弱くて情けない父が嫌いだった。

戦おうとしないで、すぐに頭を下げる父が嫌いだった。




父が志願した理由。

そんなのは俺にしか分からない。



ただ次に誰かがあの人を馬鹿にしたらオレはそいつを絶対許さないだろう。










48.




頑張れば絶対にできる。

そう言ったのは父だった。

どんなことだって頑張れば不可能じゃない。どれだって手を伸ばせば届くんだ。

物事をプラスにもマイナスにも考えないあの人には珍しい理想論だった。











父の葬式はこじんまりとしたものだった。

そんな人望があるほうではないのだろう。参列者もオレを含めても両手で数えられるほどだった。

オレは特になんの感慨もなく、淡々と作業をこなしていた。

悲しいとか寂しいとかそういう感情はまだロビーに置きっぱなしだ。しばらく取りに帰る気は無い。



40歳くらいの女性の参列者がオレの姿を見ると、早足で駆け寄ってきた。

形式どおりのお悔やみの言葉……というやつを先に言って、彼女は頼んでもいないのに勝手にオレの父の話をしはじめた。

その話の中にはオレの知らない父もたくさんいた。

意外と教官同士ではよく話す方だったとか、色々気の回る人だったとか、生徒にも好かれていたとか。

オレは頷くことも無くなんとなしに聞いていた。

その中にはオレの話も多かった。

なんでもあの父親はよく子供の話題を口にするという。

そんな恥ずかしい真似よくできるよな。

その女性は飽きることなく一定の口調で話を続ける。

父はオレのことをしきりに褒めていたとか、将来はどこどこの学派にはいるだろうとか。

そしてオレに謝罪の言葉をこぼすことも多かったという。

彼女は何度も会話の途中途中で言葉を変えて、なんで父が急に志願したのかを訊いてきた。

あの人はそういう人じゃない。自分から戦おうとする人じゃない。何度も彼女はそう言った。

オレは分からないと言った。

それは嘘じゃなくて本当に分からなかった。

なんで父があんな真似をしたのか。あの人はそういう小さな意地のために馬鹿なことはしない。

そんな自分でも分からない疑問を考えているうちにいくつか口に出していたようだ。

彼女はオレに対して侮蔑とも哀れみともいえない視線を向ける。

そして分からないと繰りかえすオレに言った。


あの人の中ではあなたが一番なのよ。


そんなことは分かっている。オレだって何年もあの人の息子をやってきたのだ。それくらい分かっているつもりだ。

でもそれでも父は戦うだろうか。オレがあんなことを言ったから?オレが戦えと言ったから?



父親というのは息子の前では格好をつけたがるものなのよ。



彼女の言葉を何度も反芻しているうちに、彼女は他の教官達と棺を抱えて墓地の方へ向かっていった。

オレは追うこともなく、ぺたんと所々禿げた芝生に腰を下ろす。




オレは理想論が嫌いだった。

小さいころは好きだった。もっと強くなって偉くなって、周りに認められたかった。

でも背が伸びるにつれて周りが見えてくる。

無理なものは無理だし、届かないところには届かない。

どんなに頑張っても、どんなに努力しても越えられない壁っていうのがあって、気づけば自分の周りは壁だらけだった。

何度も何度もその壁を越えようと登るんだけど、いつまで経っても越えられない。みんなはとっくに壁の向こうだった。

オレは何度も諦めた。昨日だって諦めた。壁の中だって悪くないと思い始めた。


でも、もう諦めない。





頑張れば絶対にできる。

そう言ったのは父だった。

どんなことだって頑張れば不可能じゃない。どれだって手を伸ばせば届くんだ。

物事をプラスにもマイナスにも考えないあの人には珍しい理想論だった。



俺の嫌いな理想論。

ああすればできる、こうすればできる。

オレがいつまで経ってもできなかったからだろうか。

そういう理想論はいつも諦めようとするオレに鞭を打つ。




でもそんな理想論を追いかけることも悪く無いだろう。



オレは誰よりも強くなって、誰よりも偉くなって、証明してやろう。

もう一度捨てた理想を抱えて走ろうじゃないか。






頑張れば絶対にできる

そう思わせてくれたのは父だった。







第六話 嘘つき/Standard


>第七話

後書き


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