第三話 空繰翳天/I am right
1.
グシャ……。
腱の千切れるような音を出しながら腕を体から引きちぎる。
なかなか切れない筋肉は糸を引く納豆を連想させる。
「ハァ、ハァ……」
これで5匹目。
収穫は無い。
この右腕には牙も爪もあった。
肉を切り裂く爪も、それを食いちぎる牙も。
どんなに自分が拒んでも、こいつはそれを止めなかった。
だからこれは獣なんだ。
爪も牙も持った腕。
生きるためにこいつは肉を食らう。
だから殺人ではなく捕食。
やめろ、と叫んだのはいつの日か。
もうこいつに声は届かない。
だからこれは獣なんだろう。
獣は飢えている。
肉をよこせと飢えている。
ブシャ……。
獣は飢えている。
6匹目。
まだ腕は見つからない。
2.
目が覚めた。
どうやら俺はそんなに寝起きに困る方ではないらしい。目覚ましなどかけなくてもしっかりと起きられる。
そういえば、なんか夢をみたような気がしたが思い出せない。
夢なんてそんなもんだ。むしろ忘れた方がいいことなんて山ほどあるだろう。
「んーーっ」
大きく両腕を天井に向かって伸ばし、立ち上がる。
まだこの部屋には馴染めないが、この天井だけは一晩ですっかり友達になった。
俺は昨日、家に帰ってから簡単に夕食をすまし、とっとと寝ることにした。
何をやっても落ち着かなくて、「もう寝ちまえ」っと結論を出したわけだ。
だが結局一晩考えても答えは出なかった。
まあ一晩なんていってもちょっと考えたらすぐに眠くなって寝てしまったんだけど。
喉が渇いた。
寝室を出て、キッチンに向かう。
ふと時計を見る。
やっと時計の位置を探すようなことは無くなった。
リビングのドアの上にかかっている時計によれば、今は午前10時……。
「10時!?」
そ、そんな馬鹿な。
慌ててテレビをつける。だが、やっぱり10時。
「なんてこった」
おそらく、俺が昨日寝たのは10時過ぎ。ということは12時間も寝ていたことになる。
そりゃあ寝起きがいいはずだ。
そうか。肉体的にはどうあれ、精神的に疲れていたのかもしれない。
そうやって自分の寝坊説を否定しながら、遅めの朝食を取った。
3.
ガチャン。
しっかりと鍵をかけ、家を出る。
持ってかれて困るようなものはないが、忘れかけた習慣を取り戻すためになんとなくやっている行為。
さて―――
今日はよく晴れている。最近は天気がいいようだ。
こういう日は洗濯でもするものだろうか。家に洗濯機があるってことはきっと俺もそうしていたのかもしれない。
相変わらず俺の記憶は戻らない。
記憶喪失。
こうして改めて聞くと本当冗談みたいな響きだ。たぶん初対面の人に「僕、記憶喪失なんですよ」と言っても信じてもらえないだろう。
記憶喪失とは専門的には健忘症というらしい。
そして驚くことに健忘症というのは症例としては有名だが、実際にはかなり稀な病気なのである。医学書をひっくり返してもたいした記述はない。
そして健忘症には大きく分けて二つの種類がある。
器質性健忘と心因性健忘。外的要因によるものが前者でそうでないものが後者。
俺の場合は強く頭を打ったのが原因らしいから前者にあたるんだろう。
ただ病院での検査はシロ。目が覚めてからというもの様々な検査を受けたが脳には異常は見られないそうだ。まあ今ならどうしてそうなったかのかぐらい分かる。
セカイが強制した。きっとそうだろう。
だが記憶が戻らないのはどういうことだろうか。肉体的なものは直せてもそういったものまでは直してくれないのだろうか。だとしたら随分な手抜き工事だ。
さて、これだけ経ってなんの自覚症状もないとなると、心因性健忘の方も考えた方がいいかもしれない。
心因性のものには心因性健忘と心因性遁走と二つある。
心因性遁走は変身願望などからなるもので、数時間から数日で回復するものだ。よって俺の場合は心因性健忘ということになる。
これまた心因性健忘は四つに分けられる。
限局性、選択性、全般性、持続性。
このうち、ある限定された期間だけ思い出せない限局性、そしてある期間内全てではなくその中のいくつかのことは思い出せるという選択性は俺には当てはまらない。
持続性にしてもそうだ。これは特定の日時から現在までの記憶がなくなるもの。
そう、俺は一番タチが悪い全般性にあたるのだろう。
これはその名の通り、自分の人生全てを忘れてしまうもの。今しかない俺にはぴったりなのだろう。
医者の話によれば治るかどうかも分からないらしい。失うのも突然なら戻るのも突然だとか。そのくせ再発はないという。
まあ結局のところ、このまま治るのを待つしかないというわけだ。
最近、俺は記憶のないことが苦痛ではなくなってきた。
普通、誰だって記憶を失えば取り戻したくなるだろう。それは当然だ。喫茶店に入って自分が何を注文したのか忘れてしまって不安になるのと同じこと。
だが、今の俺にはそれがない。
あまりに綺麗に自分に関する記憶だけ失ってしまったせいか過去の自分に対する執着が薄いのだ。
俺が一番怖いのはそれだ。
つまるところ、俺は失ったことを忘れてしまいそうで怖いのである。
そんなことを考えながら、またここに来る。
周りの建物に比べ色あせたそこはやっぱりスーパーマンの秘密基地とは言いがたかった。
4.
「おっ、早かったね」
コトーさんはいつもと変わらず、デスクを前にどっぷりと背もたれに寄りかかって座っている。
「早いって、もう12時ですよ」
もう昼なのだ。どう考えても早いとは思えない。
「あ、時間じゃなくてね。君が来るのはあと何日か先じゃないかと予想してたんだよ」
バタンと読みかけていた厚そうな本を閉じ、デスクに両肘をつき両手を重ねる。
「それで―――覚悟は決まったかい?」
俺の目をじっと見据える。
覚悟―――。それはコトーさんの提示した条件。それを飲むことができるかということ。
「それは……」
コトーさんは言った。覚悟が決まったらまた来なさいと。
「ここに来たってことは決まったってことなのかな?」
別に責める風もなく淡々と言葉を続ける。責めることはしない。それは彼が決めることではなくて俺が決めることだから。
「俺は覚悟を決めました」
「ということは……」
「俺にはコトーさんの言うことは分からない。それは俺の協力する理由と違うから」
「………だろうね」
パラパラと閉じた本を再びめくる。
「だから俺はそんな覚悟をするようなことにはしない。それが俺の覚悟です」
それが俺が出した答え。YESでもNOでもない答え。俺にはあの条件を簡単には飲めない。だから俺は飲まなくていい状況を作る。でもそれは―――
「それは逃げだよ」
あっさりと核心をつかれた。
「そんな答えが許されるなら僕だってこんな条件はださないさ。だけどね、それじゃ君はきっと後悔するよ」
「俺にはそれが分からない。俺はコトーさんの言うようにはしない。だからあらかじめそれを容認することはできない」
「君は素直だね。だが世の中全てが上手くいくとは限らないんだ。だから今決めなくちゃいけない。いいかい?このままじゃ君は何も選べない。YESもNOも選ばない君には選択肢はないんだ」
それは分かっている。俺の出した答えはひどく曖昧な答え。
「もう一度言うよ。君が何も選ばないっていうならしょうがない。僕は君とは組めない」
コトーさんならきっとそう言うんじゃないかとは思った。
5.
きっとコトーさんならそう言うんじゃないかとは思っていた。
あの人は優しい。だから俺の曖昧な答えを許さない。
「……さあ、出て行ってくれ。ここにいる理由はないはずだろう」
入ってきたときと同じように喜怒哀楽の読めない穏やかな言葉。
やっぱりこうなるよな。
俺は部屋を出ようとドアを開ける―――とノブに手を掛けた途端、勢いよくドアが開かれた。
「遅れました!!」
ものすごいスピードで走りこんできたのは例の彼女。
ドアが閉まるより早く、デスクの前まで走りきっていた。
「シャル君、こんにちは」
穏やかにコトーさんは笑う。
「すいません!今日こそちゃんと来るはずだったのですがなぜか目覚ましが鳴らなくてそれに腹が減っては戦をできぬということで昼食をしっかりと取ってきたため……」
勢いよく頭を下げた彼女は舌を噛むぐらいにカタカタと言葉を並べる。
「あははは。まあシャル君の寝起きの悪さは今に始まったことじゃないからね」
やれやれと彼女をからかう。
「明日こそは……」
俺の前にいる彼女はメラメラと闘志を燃やしながら、その右手はしつこい寝癖と格闘していた。
「リョ、リョーゴ!なぜここに!?」
そして今頃気づく。
「なぜって……来てもいいって話だったけど」
「それはそうですが……。貴方はなんとなく来ない気がしてたので」
直しても直しても立ち上がる寝癖を片手で抑えながら彼女が言う。
「それで……」
と言いながら、彼女はコトーさんを見る。
「彼には戦線離脱してもらうことにした」
ペタペタと本に付箋をつけながらコトーさんは言う。
「え!?じゃあリョーゴはなぜここに!?」
驚きながらも片手は頭から離さない。
「彼なりの考えがあってきたそうだ。だけど僕の条件は飲めない。だから共同戦線ははれない。そういう風に話がまとまったところに君が入ってきたってとこかな」
ペン立てから使い込まれたボールペンを取り出して本にさらさらと書き込む。
「それじゃあ彼は……」
「ああ。今から帰ってもらうところだ」
再び事実を口にする。俺は何も言わない。
「それじゃあリョーゴ君。君はなかなか面白い子だったよ」
いつも通りの笑顔を浮かべるコトーさん。
「それでは短い間でしたがお世話になりました」
俺は事務所のドアを開ける。彼女は何も言わない。きっとコトーさんに同意見なんだろう。
降り慣れた階段を一段ずつ降る。
思えばたった数回しか来てないのにこの事務所はひどく懐かしい。
自分の家よりも感慨深いのは何故だろうか。
だがそれもこれまで。俺達の戦いはこれで終わりだ。
考えの合わない者同士が一緒にいてもしょうがない。
ここからは俺の戦いだ。
6.
再び家に帰ってきた。
どさっとソファーに横になる。
予想はしていたが、いざ拒絶されるとやっぱり辛い。
コトーさんが悪いんじゃない。悪いのは何も選べない俺自身。
でも俺にはそれを選べない。
だからコトーさん達と一緒に戦うことはできない。
時刻は3時過ぎ。
思えば俺は何をやっていたのだろう。
俺はどうやら大学生らしい。きっと日が昇っているうちは大学にでも通っていたのだろうか。
でも一日中っていうわけでもないだろう。だとしたらアルバイトでもやっていたのだろうか。
まあどちらにしろ今はたいした問題じゃない。大学には休学届けが出てるし、バイト先の人達も俺のことなんてもう忘れてることだろう。
そうなるとやることがない。
今まで俺はどうやって暇を潰していたのだろうか。何日か前に家を軽く掃除したが、それらしいものはなかった。
引っ越してきたばかりだったのか、俺はあまり物を置かない主義らしい。
そういえば知り合いもいない。
俺が退院したことなんてみんな知らないのだろうか。まあ一年も寝てるんだから死んでるのとたいして変わらないか。
結局のところ俺は一人だ。
コトーさんもシャルもいない今、俺は再び一人になってしまった。
でもこれでいい。
俺はDUDSだとコトーさんは言った。
俺もそう思う。自覚こそないが、それはいつ現れるか分からない。
DUDSか。
どこの誰だか知らないが、この名をつけた人はきっといい詩人になれるだろう。
不発弾、出来損ない……。
いつ爆発するか分からない失敗作。
故にDUDS。
俺は一人でよかったのかもしれない。
抱えた爆弾に残り時間は表示されない。
それはずっと来ないかもしれないし、今にでも来るかもしれない。
どちらにしろ爆弾は人と一緒にいられない。
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