a prologue
1.
「っ……」
声が出ない。
誰かも知らない奴の腕が胸を突き破る。
そこに躊躇いはない。そいつは俺が出てこようがきまいが最初からそうするつもりだったんだから。
膝が折れる。
そりゃそうだろう。真っ当な人間なら身体にでかい穴を開けられれば生きていけない。
倒れるときにふと彼女が視界に入った。
呆れるような責めるような目。どうやら俺が気に入らないらしい。
俺だって気に入らないさ。俺だって自分がこういう奴だとは思わなかった。
雨脚が強まる。
これだけの雨なら服についた血も落ちるかもしれないな、とひどく場違いなことを思いつつ倒れこむ。
とにかくこの服に赤は似合わない。
俺に穴を開けたそいつは止まることなく彼女にも向かっていく。
俺に見えたのはそこまで。
それからのことは雨に打たれるうちに小さくなっていった。
止まない雨に血は流れていく。
色気のないこの坂道にはさぞかし赤が映えるだろう―――。
2.
「九堂君、退院おめでとう」
抑揚のない声で医者はそう言った。
その顔はひどくやつれている。きっと原因の一端は俺にあるのだろう。
もう見飽きた白い部屋をバックに白衣を着た医者は背景のようだった。
「九堂君、いいかい?無理はしちゃいけないよ」
九堂か……。どうも他人の名前を呼ばれてるようで居心地が悪い。
あれだ、自分のクラスに同じ苗字の奴がいるのに似ている。
「何かあったらまた必ず来てね」
「はい」
記憶を手繰り寄せることなく自然と口に出る返事。
どうやらこういう問いには素直に答えるのが俺だったらしい。
「たぶん体の方にはもう異常はないと思うんだけど。ただ―――」
俺が目を覚ましたのは今から一ヶ月前。
俺は交通事故というありきたりな理由でこの病院に運び込まれた。
盛大にトラックにはねられた割には外傷と呼べる外傷は少なく、骨折が数箇所、打撲、打ち身がとんとんというところだった。
ただ、その事故は今から一年ちょっと前の話ということになる。
外傷は治るものだ。出血も頭部からのものでたいしたことはない。
だが打ち所が悪かったらしい。頭を打ったときに内部に大きな損傷ができてしまった。
つまり植物状態というやつだ。
動かなくなった体。指揮者のいない楽団は演奏をやめてしまった。
糸で天井から吊ってやれば少しは見栄えがしただろうに。
そのまま俺はこの病院で一年ほど過ごすことになる。
そして一ヶ月前。俺は意識を取り戻した。
奪われたわけでもないのに取り戻すという表現はおかしいとも思うが、それはうっかり者の自分への皮肉だと思う。
普通、植物状態の患者が意識を取り戻すということはない。
植物状態とは数ヶ月意識が戻らず同じ状態であることを言い、極稀に何年か経ち意識が戻る場合もあるがそんなのは相当ツイてる奴だけだろう。
それをツイてると言うならば、俺の場合は事故にあった時期がよかったのかもしれない。
というのもツイてるのは俺だけではないらしい。
時は同じく一ヶ月前、奇妙な現象が街に起こる。
重病、重症患者の奇跡的な回復である。
それまで回復は絶望的と診断された者までもが、その傷を癒し快方へと向かう。
全ての人というわけではないらしいが5人でも6人でもそういうことが立て続けに起これば病院はパニックだろう。
かくいう俺もこの一ヶ月はリハビリやら検査やらで大忙しだった。
本来1年も寝たきりだった俺の体はこんなにすぐ動くようにはならないらしい。たまに看護婦さん達が間接部を動かしてくれたようだが、一ヶ月でまともに動くようになるとは医学の範疇もとい人体の摂理を超えているとか。
それでも一ヶ月で退院できたのは俺のケースは他の患者と違い多少なりとも納得のできる回復だったせいだろう。
植物状態の患者の意識が戻るということは珍しくはあるけれど、なくなった腕が生えてくるより現実味がある。
ここまでが俺がこの一ヶ月で聞いた話。その現象の原因は未だはっきりしないらしい。それはそうだろう。本人にだって分からないのだから。
そして長く世話になった病院を後にする。
荷物は少なく小さな手提げバックに納まった。
別れ際に医者は言った。
「いいかい?記憶は絶対もどってくるからね。何年かしてから思い出すケースだって珍しくないんだ。希望を捨てちゃいけないよ」
「はい」
励ましと知りながら素直に答える。
どうやらこういう問いには素直に答えるのが俺だったらしい。
3.
馴染みの道を地図を片手に歩く。
医者の話によると俺には身寄りがいないらしい。
両親は幼い頃に他界。親戚の家に預けられるもそこではあまり好かれていなかったらしい。
現に見舞いにきたのは一度だけ。目を覚まさない俺を見たきりやって来ない。
その後治療を促してくれたのは父の友人の湖東という人らしい。
仕事が忙しいらしく俺が目を覚ましてからは一度も来てないようだが、中国人みたいな名前だなと思う。
今から向かうのはその湖東という人の事務所。
俺の退院に合わせて今日は予定を開けてくれたらしい。
父の友人とはいえ、会うのは初めてだ。
まあ誰と会っても初めてではあるんだけど。
午後一時。30分ほど捜し歩いてやっと湖東という人の事務所にたどり着いた。
そこはビルのテナントを借りたような事務所で周りの建物から比べると少し色あせているように見える。
階段付近の看板を一つずつ見ていき、「湖東」という文字を見つけ2階に上る。
階段を上りながら来たことがないか思い返してみる。
「湖東、湖東、湖東…」
口に出してみても覚えはない。
そうだよな。こんな名前は一度見たら思い出せないはずがない。中国人みたいな名前だ。
そして2階の事務所のドアの前に立つ。
事務所とか言っていたが特にそれらしい看板は見つからない。呼び鈴もあるわけではないので軽くノックをする。
「はい、どうぞ」
明るさと落ち着きが入り混じるような男の声が部屋の中からし、俺はドアを開ける。
「こんにちは」
中にいる男が椅子に座りながら挨拶をした。
こちらも挨拶を返しながら部屋に入り、軽く周りを見渡してみる。
その部屋は事務所と言う割には、デスクも仕事用らしきものが一つと接客用に一つ。ソファーの周りには書類が散乱しており、お世辞にも綺麗な部屋とは言いがたい。
それでもこの部屋が落ち着くのは、おそらく正面に座っている男のせいだろう。
歳は20代後半くらい、短く切ったボサボサな頭と雑に剃られ所々残っているヒゲ、そして四角いフレームの眼鏡。
あまり清潔感が漂うとは言えないが、彼の持つ独特の暖かい感じはそれを補って余りある。
「君が亮伍君だね」
湖東という男は俺の名前を口にした。俺の名前……。
俺はドアを閉めながら整理整頓がきっと苦手科目であろう男の部屋に入っていった。
「はじめまして。九堂亮伍といいます。湖東さん、でよろしいのでしょうか?」
他人の紹介をするみたいだな、と苦笑する。
「ああ。僕は湖東宗弘って言うんだ。はっはっは、よろしくね」
湖東さんは陽気に挨拶をすると急須にお湯を注いだ。
「それにしても『はじめまして』か……。やっぱり記憶障害なのかい?」
湖東さんは湯のみにお茶を注ぎながら顔を会わせずにつぶやく。
「そうみたいですね。実際、湖東さんのことも思い出せませんでした」
湯のみを受け取りお茶を口にする。苦い。緑茶は苦手なのかもしれない。
「それはいいんだ。僕とは10年ぶりくらいだからね。君のお父さんとは古い友人だけど随分昔に亡くなったからね。それ以来君とは会ってないんだ」
「そうなんですか……」
「本当はもう少し君と話がしたかったんだけどね。僕も仕事柄忙しくて、それに君の親戚はやけにつながりが強くてね。僕みたいなのとは会わせてくれなくてさ」
困ったものだねと笑いながら散らかった書類を隅に積み上げる。
今にも崩れそうな乱雑に積み上げられた書類はランドセルをしょった小学生より高いだろう。
「君の家系は少し変わっててね。あまり余所者を受け入れないと言うか……。まあそういう伝統があるんだよ」
「はぁ……」
曖昧な返事を返す。君の家系と言われても今の俺は顔すら知らない。
「おっと、ついついしゃべり過ぎちゃったね。そうそう、君には用があって来てもらったんだった」
「用?ですか」
ガタゴトとデスクの引き出しをいくつか開け、何かを取り出す。
「うん。たいしたものはないんだけど、まずこれが君がすんでいたマンションの地図と鍵。部屋は大家さんに言ってその時のままになってるから行けばなにか思い出すかもしれないね」
「そのままって、湖東さんがとっといてくれたんですか!?」
「ああ。君の父親との約束でね。一応、君の事は任されてるんだ。まっ、ほとんどほったらかしにしてきちゃったけどね」
ははは、と人好きにする笑顔を浮かべて湖東さんは笑う。こんな顔をされては敵わない。
「まずはそこに行ってみるといい。よく記憶を失う前に好きだった音楽を聞いたり、馴染みの場所に行ったりするとふと記憶が蘇ったりすると聞くよ。あっ、あんまり期待させちゃいけないかな」
ぽりぽりと頬をかきながら、また「あはは」と笑う。
「何から何まで有難うございました。それではそのマンションに行ってみます」
「うん、それがいい」
鍵と地図をバックに入れ、俺はドアに向かった。
「亮伍君」
そしてノブに手を掛けたとき、後ろから名前を呼ばれた。
「なんですか?」
そう言って振り返る。
「僕は君の事を知ってるよ」
「―――え?」
「ああ、いいんだ。たいしたことじゃあない。それじゃ、記憶が戻るといいね。やっぱりないよりはあった方がいい」
湖東さんの笑顔に送られつつ、俺は事務所を後にした。
4.
マンションに向かう途中、ふとさっきの会話を思い出した。
話は俺の記憶障害に移っていった。
「うーん、それじゃ君は過去のことは思い出せないんだね」
「はい。自分の家がどこだとか、自分がどこの学校に行ってたとか、そういうのは全然思い出せないんですよ」
ふむふむと頷く湖東さん。
「でも読み書きはできるんだよね?」
「はい。読み書きとか歴史の年号とかそういう知識のようなものは残ってるんです」
ふむふむと湖東さんはさっきと同じように頷く。
「亮伍君。見当識って知ってるかい?」
見当識……。たしか病院で医者が同じようなことを言っていた。
「簡単に言えば、いくつか質問をしていってその人の認識力の障害を調べるっていったものなんだけど……」
「そういうのなら病院で嫌というほど受けましたよ」
白い部屋は未だに頭に焼き付いて離れない。
「うん、そうだろうね。たぶん言うことは変わらないと思うけど、僕の見立てだとね、亮伍君の最近の記憶は正常だよ。現に今だって病院の話がすぐに出てきたろ?」
「そうですね」
「後は言葉の読み書きもできるし、しっかりとした判断力もある。ここまでは正常だね」
そう。だけど俺には―――
「だけど君には過去の記憶がない。過去に遭遇した人々、場所、出来事。自分のことになると何も覚えていない」
「……」
「別にそれ自体はそう珍しいことじゃないんだ。部分的な記憶の損傷のがむしろ多いくらいだしね。ただ君の場合は少し綺麗過ぎる」
「綺麗過ぎる?」
「君は綺麗にさっぱりと自分に関するところだけ抜けているんだ。遠くの地名は分かるのに、自分の住んでるところは分からない。歴史上の人物の名前は分かっても友達の名前は思い出せない。まるであえて自分が自分を認識できないように記憶を消したようだ」
自分で自分を認識できないように記憶を消した……か。
これはうまく表したというか。自分でも曖昧な部分をすぱんと言い当てられたというか。
つまりは俺は自分が分からないのだ。
自分が誰なのか分からない。
ただ周りの人が九堂亮伍と言うから俺は九堂亮伍なんだと思うだけ。一人になったらそこにいるのは誰になるのか分からない。
人は常に過去と今を照らし合わせて生きている。
だから自分で自分を認識できる。
故に今の俺は自分が認識できない。
言うなれば記憶を失った今の自分がいて、そいつが記憶を失う前の九堂亮伍という皮を被っているのだ。
周りが見るのは外の皮。俺の居場所は皮の中。
全てのものは観測者がいて成立するものだと聞いたことがある。
全ての人が観測者であり、被観測物でもある。
そう、孤独な観測者は自分の姿さえ朧げだった―――。
5.
15分ほど歩き続けてようやく自分の家についた。
案の定、全く思い出せない。
マンションと言うわりにはこじんまりとしたところだった。5階立ての比較的新しい感じのマンションでよく見ると郵便受け一つにしても装飾がなされておりなかなか綺麗なところだ。
やっぱりというか、忘れっぽい俺の記憶は初めてきた場所だと判断する。
湖東さんにもらった地図によると、502号室が俺の家になってるらしい。
エレベーターを使い5階に上がる。そこからカツカツと二つ三つドアを過ぎ、502と書かれたドアの前に立つ。
「ここか」
目の前のドアに向かってつぶやきながら鍵を差し込む。
ガチャリという面白みのない返事をしてドアは開いた。
玄関に靴を脱ぐ。なんとなく揃えてしまうのは自分の家だという実感がないからだろうか。
廊下を歩き、リビングと思われるところに出る。
「…………」
その部屋は男の一人暮らしにしてはよく片付いていた。いや、誰かが片付けてくれたのだろうか。
余計な物のない質素な部屋だった。テーブルとソファーにテレビ。ぱっと目に付くのはそれくらい。
そのままキッチンの方にまわる。調理道具がよく整頓されている。意外と自炊をしていたのかもしれない。後で少し料理をしてみよう。
「いきなり自分の家だといわれてもなぁ」
あらかた家の中を見終わって、どさっとソファーに腰を下ろす。
やっぱり落ち着かない。それは他人の家にいるからか、記憶の戻らない苛立ちか。
部屋を軽くひっくり返して古いアルバムを見たりしてみたが、やっぱり変だなぁと思う。
どうも自分の名前が書かれた物が他人の家にあるようで違和感を感じてならない。
とりあえず、保険証やパスポートなど貴重品を机の上に並べる。
学生証には自分の顔の写真だと思われるものが貼ってあって、どうやら俺は大学生らしい。
うーむ。でも一年も学校には行ってないし、休学ということになってるのかなぁ。少なくとも留年だろうな。
はぁ、と溜息をつきながらもう一度この一ヶ月を振り返ってみる。
「といってもたいして何もないんだよな」
目が覚めたら医者が驚いて、リハビリして検査して、湖東さんに会って、ここにきた。
目が覚める前の記憶はない。
「はぁ」
改めて自分の不甲斐なさに呆れる。
俺はこれからどうすればいいんだろう。
俺には名前があるし、戸籍もある。
九堂亮伍―――。
ただそいつはそいつで人生を歩んできた。俺はそいつを知らない。
だから抵抗があるのだろうか。
それは違う。
俺は九堂亮伍になってしまうのが怖いんだろう。今の俺はそいつと違う。そいつと一緒になるということは俺が消えるということになる。
ただ俺は九堂亮伍以外にはなれない。そいつを被っている以上俺はそれ以外にはなれないんだろう。
だから少しずつ慣れていくしかない。
だって何かにならないと生きていけないんだから。
6.
誰も自分を知らなかった。
自分も自分を知らなかった。
みんな自分を知っている。
自分は自分を知っている。
だから自分はここにいる。
「はー、食った食った」
ソファーに横になる。
正直これには驚いた。
あれからスーパーに行って適当に材料を買って、本を見ながら料理をしてみたが。
「こんなに俺は料理が上手いとはな……」
綺麗に平らげた食器類を見ながら誰とにでもなくつぶやいた。
どうやら俺は自炊してたみたいだ。
食器を片付け、テレビのチャンネルをカチカチと変える。
「うーん、やっぱり知ってる番組はやってないなぁ」
違うか。やってる番組を知らないんだよな。
仕方ないので病院にいたときに見たものを適当に流す。
俺は一年ほど意識を失っていた。
その間はひどく何もなくて、きっと何もなかった。
特に夢を見たというわけじゃないし、起きたら次の日だったという形容もちょっとおかしい。
だって昨日を知らない俺には今日が分からなかったんだから。
目を覚ましたときには全てが不思議だった。
目を覚ます前の記憶がない俺にはさっぱり現状が分からなかったのだ。
俺が誰で、ここがどこで、今がいつで―――いや、そんなことすら疑問に思えなった。
思い出せないんじゃない。知らないんだ。
だから俺は思い出せないことを疑問に思わない。
そんなことは知らないんだから。
そのうち医者が事故の様子や、俺の家族のことを話してくれたときも俺は他人事のように頷くことしかできなかった。
医者が話す俺の話は面白いようによくできていて、それが嘘だか本当だか分からないことがまた滑稽だった。
起きててもすることがないので俺は早々とベッドに入った。
まだ10時過ぎ。おそらく早く寝た方だと思う。
色々考えすぎたせいかすんなりと俺は眠りに入った。
何も思い出せないんじゃなくて、何も知らない。
難しいことは明日に回して今日は眠る。
誰も自分を知らなかった。
自分も自分を知らなかった。
みんな自分を知っている。
自分は自分を知っている。
だから自分はここにいる。
―――だから自分は歩けない。
7.
体が疼く。
記憶を求めるこの体は今にも動き出しそうだ。
指揮者がいなくても楽団は止まらない。
それは既に演奏ではなかった。
「――――っ」
目が覚めた。
暑い……。
9月の終わりだというのに俺の体は汗びっしょりで喉はカラカラに渇いていた。
今日買ってきた牛乳をコップ注ぎ、一気に飲み干す。
「はー。やっぱり慣れないとこだとよく寝れないのかな」
あまりに暑いので窓を開ける。外の空気は冷たい。夏も終わりなんだなとぼんやりと思う。
「あ……。腹減ったなぁ」
午前1時。夕飯が早かったせいか俺の胃は唐突に空腹を訴え始めた。
たしか近くにコンビニがあったはずだ。
俺は近くにあった上着を羽織り外に出た。
マンションを出るとより一層外の風を感じる。
夏の終わりっていうのは昼は暑くて夜は寒いというアンバランス。
釣り合いの取れないふざけた気温はどこかの記憶喪失の男を思わせる。
「あー、ちょっと寒いな」
もう一枚上着を着てくるべきだったかと思うが、今から戻るのも面倒だ。ここはさっさとコンビニへ向かおう。
道路を歩くと慣れないアスファルトの感触が靴底に新しい。
冷たいアスファルトは夜になるとキーンといい音が響きそうなくらい固かった。
少し歩くと交差点が見えてきた。
緑や赤の信号の明かりはこの時間だとネオンのようによく映える。
地図によればここを右に曲がればコンビニはすぐのはずだ。
そして交差点に差し掛かった瞬間。
―――心臓が跳ねた。
体が電気を流されたかのように反応し、何かを思い出したような、忘れたような。
矛盾しているといえばそうなのだが、そう感じたのだ。
例えるならば夢の続き。その夢が依然見たものと同じかどうか判断するときに似ている。
前の夢を思い出せばそちらに引きずられ今見ている夢は薄くなる。
思い出すことと忘れることが同時に起こる矛盾。
そして俺の記憶は言う。
ここには近づくな。
ここに近づいてはいけない。
だが、だめだ。お前の言うことは当てにならない。
俺はお前とは違う。
交差点へと足を向ける。
そして信号の変わるのを待って渡る。
ほら、何もないじゃないか。
そして目の前には大きな坂道。
前は下ったんだっけ。
ここを過ぎれば。ここを過ぎれば。
俺は坂道を上る。
ガガッ!ガンガン!
ふと、鉄の鉄がぶつかり合うような音がした。
それは警鐘のように夜に響く。
8.
そこで見た光景は異常。
ここに在らず。常に非ず。その光景は異常だった。
息を切らせる大柄の男。
そして対峙するは黒い外套の少年。
いや、少女か。
少女の手には黒い何かが握られていて、それで男の繰り出すものを防いでいた。
そう、銃だ。
あれは銃。黒く光る銃身は青白く光る銀を連想させる。黒くて白い不思議な銃。
十合ほど打ち合ったか、男は攻めあぐねたのか距離をとる。
だが、それじゃ勝ち目はない。
そもそも少女の武器は銃なのだ。空手の男は白兵戦に持ち込まなければ勝ち目はない。
それを勝機と見たのか、少女はすぐに銃を構える。
だが、それは早計。
男は10mはあろう距離を一瞬にしてゼロにした。強靭な踏み込み。踏み抜く音とどちらが速いか。
それだけじゃない。たしかに男の左腕は伸びたのだ。
あの左腕は異常。異常を異常足らしめる異常。それに気のせいか、あの腕にはなんか白いモヤがかかって見える。
あの腕は存在が曖昧なのだろう。
少女はかろうじでそれを銃身で受け止める。
骨が軋むような低い弦楽器のような音が響く。
だが勝負に出た男の奇策に少女は躊躇した。防御に入った腕が戻らない。
それを男は見逃さない。すぐに次弾がくるだろう。
それは弾丸。崩された体制からではかわせないだろう。
いや、たとえ万全であってもかわせない。
だから彼女はかわせない。
そう、かわせないから―――
ドスッ!
それは紙を突き破るかのように容易く俺の体を貫いた。
「っあ……」
気づけば俺は二人の間に割り込む感じで入っていた。
膝が折れる。
倒れるときにふと彼女が視界に入った。
呆れるような責めるような目。どうやら俺が気に入らないらしい。
俺だって気に入らないさ。俺だって自分がこういう奴だとは思わなかった。
雨脚が強まる。
これだけの雨なら服についた血も落ちるかもしれないな、とひどく場違いなことを思いつつ倒れこむ。
とにかくこの服に赤は似合わない。
俺に穴を開けたそいつは止まることなく彼女にも向かっていく。
俺に見えたのはそこまで。
それからのことは雨に打たれるうちに小さくなっていった。
止まない雨に血は流れていく。
色気のないこの坂道にはさぞかし赤が映えるだろう―――。
それは夏の終わり。
俺の身体は動かない。
降る雨も動かない。
ただ流れる血だけが坂道を下っていった。
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